4-11.隅田川沿いを歩く 3 ← ・ → |
||||
さて隅田川に架かる言問橋を渡りますと、台東区から墨田区となり、右手には広い庭園があります。 この一帯は江戸時代には徳川水戸家の下屋敷があったことから、通称【小梅御殿】と呼ばれ、明治時代に入ってからは水戸徳川家の本邸となります。
広さは二万坪を有し、明治天皇も幾度か訪れたことのある所でもありますが、【明治2年の出来事】でも記載しているように、パンの木村家が明治天皇にアンパンを献上したのが、この水戸屋敷を訪ねた時で、天皇陛下はたいそうお気に入り、以来木村家は宮内庁御用達となります。 その後、関東大震災で屋敷が焼失しますが、昭和6年に震災復興事業の一環として公園として整備されました。 園内にはさまざまな碑があり、【隅田公園水戸邸跡由来】碑や、藤田東湖の【正気歌】碑、【明治天皇行幸所】碑や明治天皇が詠んだという【花ぐわしの歌】碑などもあります。 この【小梅御殿跡】には、現在もりっぱな庭園がひろがり、たくさんの野鳥が羽を休め、ちょっとした都会のオアシスのようでした。
|
||||
|
また下屋敷跡内には古くから信仰の篤い【牛島神社】があります。 元々はこの場所より上流の長命寺近くにあり、【牛御前社】と称されていました。 江戸から明治へと時代が変わると、【神仏分離令】が発令されたことによって【牛島神社】と改称し、更に関東大震災で崩壊した後、隅田公園整備と共に、この地に移築された神社です。 左の写真の鳥居の奥にはもうひとつ鳥居が見えますが、これは【三輪鳥居】という鳥居です。 中央の鳥居の横に脇鳥居が立つというもので、全国でも珍しい鳥居です。 この【牛島神社】という名の通りに、5年に1度の大祭の際には、牛車が引かれます。 また狛犬の代わりに二対の牛が鎮座し、牛の姿の包丁塚等、【牛】関連のものが多くあります。 その牛関連の中でも有名なのが【なで牛】です。 何でも、自分の悪い部分と同じ所を撫でると、そこが直ると言われており、江戸時代から庶民に信仰されていたそうです。 そう言えば、確かに【なで牛】の足の近辺や肩、そして頭の部分がツルツルに光っていました! 現在の【なで牛】は文政八年(1825)に奉納されたと言われていますので、今まで何人から撫でられてきたのでしょうかね? |
|||
|
牛島神社を過ぎ、言問通りを横切った一角には、【釣堀】がありました。 随分とたくさんの方々が竿を並べていましたが、このような場所に釣堀があったと事に驚き、更に入り口の料金表を見たら、入場料は一回300円ということで、またもや驚きでした! 近所の方々からすれば、ここもまた都会のオアシスかもしれません。 |
墨田区側の堤防には、江戸時代の八代将軍吉宗公の頃に桜の植樹がなされ、恩賜上野公園などと並んで、全国桜名所百選にも選ばれている桜の名所です。 右の写真のように、毎年桜の頃になると、たくさんの人々が訪れ、また隅田川にも屋形船が並び、桜を愛でる人たちで賑わいます。 また、隅田川花火大会の時になると、この言問橋から桜橋の間に船台が並び、合計2万発程の花火が打ち上げられ、1日で100万人もの人たちが訪れると言われています。 この隅田川の花火大会が始まったのも徳川吉宗の時代で、大飢饉とコレラによる死者を弔うために、川開きの際に花火が打ち上げられたのが最初と言われます。 言問橋から桜橋方面へ歩みますと、まずは三井家ゆかりの【三囲神社】があります。 江戸時代には【三囲稲荷】と呼ばれており、お稲荷さんと言えば、【三囲稲荷】を指した程有名な名刹だったようで、確かに、境内にはお狐さんの石象がたくさん祀られており、今にも狐が出てきそうな白狐祠などもあります。 また境内には3本足の【三柱鳥居】がありますが。元々は三井邸にあったもので、京都太秦の木島神社の鳥居が原型との事です。 どの角度から見ても鳥居が見え、更に柱は6角形という不思議な鳥居です。 尚、この【三囲神社】の分霊は三越デパートにも祀られているそうです。
【三囲神社】の先には、立派な大屋根をもつ【弘福禅寺】が建っています。 関東大震災で被災した為、昭和8年に再建されますが、文化財の大雄宝殿といい、写真の山門といい、唐の影響を受けた立派な造りです。
昭和16年の写真で、隅田川のボートの写真があるのですが、その写真にも隅田川から見える、この弘福禅寺の立派な屋根が見えます。
下が拡大したものですが、隅田川の何処なのか探しているうちにこの屋根を見つけました。 そして見覚えのある屋根?と思って行って見たのが右の屋根です。 現在は首都高速道路の高架が通っている為、上のような見通しの良い光景ではありませんが、かつては隅田川沿いにひときわ高く見えたようです。(詳細は【昭和16年・隅田川ボート】参照) 因みに先の【牛島神社】は、震災前はこの【弘福禅寺】の隣にありました。 |
||||||||
|
そしてこの先には桜もちで有名な【長命寺】があります。 徳川家光が鷹狩の最中に腹痛を起こし、ここの井戸水を飲んで腹痛が治まった事から、【長命水】と名づけられ、この寺の名となったと言われています。 因みに【長命寺】は正岡子規が学生時代に一時期下宿をしていたそうです。 このお寺の裏にあるのが 、桜餅発祥ともいわれる【長命寺の桜餅】です。 享保2年(1717)に初代の店主が、隅田川沿いの桜の葉を塩漬けにして桜もちを考案し、向島の名跡である長命寺の門前にて売り始めたのが最初と言われますが、確かに桜の葉の香りが程よく、よくぞ考案したものと思います。 |
|||||||
|
ところで【言問橋】と言えば【言問団子】を連想してしまうくらいお団子が有名ですが、この【言問橋】の名は、【言問団子】から付いたという説があります。 他にも、この近辺の地名から付けられた説や、上流や下流にあった渡し舟の事を《言問いの渡し》と呼んだからと言う説。 そして歌人の在原業平が呼んだ歌にちなんだという説等がありますが、正確な所は不明のようです。 その【言問団子】が【長命寺の桜もち】の先にあります。 団子と言えば串に刺すタイプが多かった頃、こちらでは串に刺さず、3つの味が楽しめるということで、創業以来評判のお団子です。 |
|||||||
|
そして【言問団子】の先にあるのが【隅田公園少年野球場】です。 入り口アーチには、何処かで見たことのあるフォームのレリーフがありますが、この野球場は、元巨人軍の打者で、現ホークスの王貞治監督が少年時代に野球をしていた野球場です。 そうした事から、王選手時代の一本足打法がレリーフとして飾ってあるようです。 またこの野球場は、日本で初めて作られた少年野球場でもあり、数々の子供たちが、明日のプロ野球選手を目指して汗水を流してきた球場です。 さてここから上流に向かえば、先の【水神八百松】へと続きますが、伯父の写真をきっかけに、こうした名所名物に出会える事もまた楽しい事の一つです。 |
昭和の出来事(昭和元年・昭和2年・昭和3年・昭和4年・昭和5年) |