昭和4年の出来事 1929 ← ・ →
|
【1月】
|
1 |
元旦から3日にかけ、伊勢神宮参拝へ飛行機でゆくツアーが募集され、500人の募集の中から12人が参加します。
大阪から35分で三重県に着き、自動車で伊勢神宮に向かい参拝しますが、初の飛行機参拝ということで大歓迎されます。 |
|
|
13 |
奥多摩に東京では初となるスケートリンクが開業します。 |
|
|
19 |
東京朝日新聞では、大正15年頃から続発している説教強盗》を捕まえた者に1000円の賞金を出すと記事を掲載します。
強盗に入った先では乱暴や強引なことはせず、寝ている主人の枕元でタバコをふかし、主人が気配に気づくと『もしもし・・・』と切り出し、
『寝ているところ申し訳ないが、少々お金を恵んで頂けないか・・・』と言い、お金を受け取っても直ぐには逃げず、
『あなたの家は暗すぎる・・・玄関や裏口には街灯をつけなさい』
『番犬を飼いなさい・・・』
『戸締りをしっかりしなさい・・・』
等と防犯の説教をする強盗として多くの人たちに恐れられていました。
|
|
この頃には《説教強盗二世・三世》など類似の強盗も多発し、他にも《ピストル強盗》《赤靴強盗》《講談強盗》《軒並強盗》などいろいろな強盗が続発します。(写真4-1) ※↓2月23日の出来事 |
|
|
・ |
昭和4年頃から販売されたものに、幼児用三輪車があります。
サドルは皮で車体は鉄パイプで普及品は一台5円50銭です。
右は昭和5年の伯父兄弟ですが、乗っているのがこの頃販売された三輪車のようです。(写真4-2)
|
|
4-1.昭和4年2月19日の新聞記事 |
4-2.昭和5年の三輪車 |
|
【2月】
|
5 |
増える自動車から子供を守る為に遊び場を・・・と、東京女高(現お茶ノ水女子大)教授らが、日本児童遊園協会を設立し、第一回の会議が行われます。
この頃子供が遊べる公園といえば、上野公園や日比谷公園、そして新しく出来た錦糸公園などしかなく、今のうちに公園を確保すべきと言う事で発足します。
(写真4-3)は大正時代の上野公園入り口で、(写真4-4)は昭和5年7月の上野公園内で写る伯父と父です。 |
|
|
22 |
相次ぐ強盗対策にと、白木屋では盗難よけの展覧会が開催されます。
防犯ベルから猛犬、更に十手なども展示されます。 |
|
|
23 |
この日世間を騒がせていた《説教強盗》がようやく捕まります。
大正15年から捕まるまで、100件程の強盗や窃盗を繰り返していましたが、懸賞金が付くなど大掛かりの捜査の中での逮捕でした。
犯人の妻木松吉は終身刑を言い渡されますが、昭和22年には模範囚と恩赦から出所し、その後は防犯講演家として各地で講演を行いました。 |
|
|
23 |
前年に上野の東京音楽学校に寄贈されたパイプオルガンの演奏会が初めて行われ、講堂には中世教会音楽が響き渡ります。 |
|
|
・ |
山形県の蔵王の名物で知られる【樹氷】の名が命名されたのがこの頃です。(写真4-5)
大正3年に初めて発見されて以来、【雪の坊】と言われていましたが、山形高校教授(現山形大学)が撮影し新聞に【樹氷】と紹介した事で一躍有名になります。
因みに昭和11年にはドイツ人映画監督が樹氷を撮影し世界に紹介します。
|
|
|
・ |
童謡【鞠と殿様】が幼児雑誌のコドモノクニに発表されます。
西条八十作詞、中山晋平作曲で、佐藤千夜子が歌い大ヒットとなります。
|
|
4-3.大正字時代の上野公園入り口/絵葉書 |
4-4.昭和5年の上野公園 |
4-5.昭和初期の蔵王の樹氷/絵葉書 |
|
【3月】
|
4 |
前年登場したマネキンガールですが、美容師の山野千枝子が中心となって【日本マネキン倶楽部】を発足させます。
モデル代も、4日連続の場合は1日10円、10日連続の場合は1日8円と割高で、6割がモデルで4割がマネージメント料でしたが、既に動く人形として需要が多かったようです。 |
|
その後金銭トラブルなどから、売れっ子のモデルが新たに【東京マネキン倶楽部】を設立するなど、マネキンクラブが増えてゆきます。 |
|
|
17 |
奈良県吉野山にロープウェーが運行します。(写真4-6)
桜の名所下千本が一望できるとあって、乗車時間3分ながら人気となります。
因みに、平成22年時点で現存する最古の索道路線でもあります。 |
|
|
・ |
この頃の不況の影響で、東京の大学や専門学校の卒業生2万人のうち、4割強が就職できない状態となります。
|
|
4-6.吉野山ロープウェー/絵葉書 |
|
【4月】
|
1 |
【上野松坂屋】が震災で焼けた後、地上8階、地下1階のルネサンス様式として新装開店します。(写真4-7)
そして新装と同時に日本で初めて登場したのが、【エレベーターガール】です。
当時の新聞には【昇降機ガール】として紹介され、年齢は14歳から20歳前後だったそうです。
また、店内には演芸ホールや動物園もあり、この日の開店には13万人もの人々が殺到します。
|
|
元々上野松坂屋の前進は江戸時代の呉服店で、明治時代には既にショーウインドウを設置し、女性従業員も採用しています。 |
|
大正4年には洋風4階建てに新装し、その後他社に先駆けて松坂屋が採用したのが制服です。
縞の木綿の着物にモスリンの帯という揃いの制服で、当時としては画期的な事のようです。 |
|
大正12年の関東大震災では地震に耐え建物は残っていたものの、翌日には火災の延焼によって焼失します。
写真は焼失前の松坂屋と、震災で焼失し外壁1枚のみ残った当時の様子です。(写真4-8)
|
|
焼け野原となった上野ですが、一ヶ月後には仮店舗にて営業を再開しますが、この時導入したのが土足入場です。
従来の下足を脱いで入場するスタイルから、下足のまま店内に入ることが出来るようになりますが、この後土足入場の店舗が増えるきっかけにもなりました。 |
|
現在の松坂屋は、外壁は新しくはなっているものの、店内やエレベーター等は当時のままの部分も多く、本館は今のデパートにはない程天井が低い構造になっています。 |
|
|
|
右は新装当時の松坂屋上空から見た上野ですが、唯一松坂屋のみが高い建物である事がわかります。(写真4-9 )
また不忍池も写っていますが、弁天島を結ぶ歩道が真っ直ぐな1本道になっており、現在のY字の歩道と違うことが判ります。 |
|
|
|
横浜の伊勢佐木町で、歩行者天国の初めと言われる、車止めが始まったのもこの1日です。
|
|
4-7.昭和4年新装の松坂屋/絵葉書
|
4-8.震災前後の松坂屋/絵葉書 |
4-9.空からみた松坂屋/絵葉書 |
|
1 |
寿屋(現サントリー)が初の国産ウイスキーを販売したのもこの1日です。(写真4-10)
もっとも発売当初は『焦げ臭い』などという評判で、価格も4円50銭という洋酒並みの値段もあって売れ行きは伸び悩み、一流ホテルも扱ってはくれませんでした。 |
|
|
1 |
新宿と片瀬江ノ島を結ぶ小田原急行電鉄江ノ島線が開通します。
所要時間は1時間25分で運賃は片道96銭でしたが、この時代から観光地や行楽地への交通網が順次整って行きます。 |
|
|
1 |
また国内の航空郵便が始まったのもこの日で、東京、大阪、福岡には専用の【航空郵便用ポスト(水色ポスト)】が設置されました。
写真はこの時の飛行機ですが、当時は水上飛行機が使われていたようです。(写真4-11)
|
|
因みに料金は、葉書で8銭5厘(普通は1銭5厘)、封書18銭(普通は3銭)と普通の郵便料金より6倍程でした。 |
|
|
15 |
宝塚歌劇団の親会社でもある阪急電鉄が、大阪梅田に【阪急百貨店】を開店しました。
(写真4-12)
鉄道と百貨店が一緒というターミナルデパートは世界初で、三越や白木屋といった今までの高級志向の百貨店ではなく、沿線の庶民をターゲットにした新しいタイプの百貨店でした。
開店当時は一皿25銭のライスカレーが大人気で、最盛期は一日の牛肉消費量が牛10頭分という記録も残っています。 |
|
その後、昭和恐慌でライスカレーの25銭を出せない人たちは、5銭のライスを注文し、テーブルのソースをかけて食べていたそうです。
他の百貨店では『ライスだけお断り』の張り紙を出していた中、宝塚歌劇団の創始者でもある小林一三氏の『いずれ景気が良くなった時に、こうしたお客様が思い出して帰ってきてくれる』の一言で、『阪急百貨店ではライスだけのお客様を歓迎します』と張り紙をし、更に福神漬けまでライスにつけて提供したことから、【ソーライス】と呼ばれて爆発的に流行します。 |
|
|
17 |
この日の新聞に、日本人の平均寿命は42.3歳と掲載されます。 |
|
|
|
4-10.昭和5年当時の新聞広告 |
4-11.当時の航空郵便輸送の水上飛行機/絵葉書 |
4-11.昭和11年頃の阪急百貨店/雑誌広告 |
|
【5月】
|
1 |
明治4年から続いていた正午の【午砲】が、この日からサイレンに変ります。
それまでは、皇居の旧本丸跡で大砲の空砲を撃っていましたが、ドン1発に19円もかかることと、時世にふさわしくないとの事などの理由によります。
現在江戸東京たてもの園にてかつての東京の午砲を見ることができます。 |
|
|
9 |
日本で初めてのトーキー映画となる【進軍】【南海の唄】が浅草電気館や新宿武蔵野館などで公開されます。
それまでは無声映画だった為、楽士が演奏し、弁士がセリフをしゃべっていましたが、トーキーは音楽やセリフが映画と一緒に音声として出る画期的なものでした。 |
|
|
9 |
西条八十作詞、中山晋平作曲の【東京行進曲】が日本ビクターから発売されます。
31日に同名の映画も封切られると、レコードは25万枚を売り上げ、空前の大ヒットとなり、その後○○行進曲と言う、行進曲と名の付いた映画や音楽が続々出てきたそうです。(写真4-13) |
|
映画は前年から雑誌【キング】に掲載された菊池寛の小説が原作で、雑誌と音楽と映画の《三位一体》のヒットと言われます。
ただ、『浅草で逢い引きして小田急で駆け落ち』するような歌詞がよろしくないとして、東京逓信局から放送禁止が命じられます。 |
|
|
16 |
米国ハリウッドで第一回アカデミー賞の授賞式が行われます。
ただ出席は200人程で、表彰も12部門で、チャップリンも特別賞を受賞しますが、『少数の人間の決めた賞などたいした名誉でもない』と参加しませんでした。
|
|
4-13.東京行進曲のレコード/江戸東京博物館蔵 |
|
【6月】
|
2 |
前月から八丈島から関西方面を巡幸中の天皇陛下が戦艦長門で記念撮影に赴いた祭、『水兵はどうした』の一言で、将官だけの撮影の予定が、1400人全乗組員が集まって艦上での記念撮影が撮られます。 |
|
|
16 |
日本で初めてとなる自走式の立体駐車場【丸の内ガラーヂ】が開業します。
地上6階建て250台収容で、月額契約は35円以上で臨時駐車1日は1円50銭でした。
|
|
|
16 |
登山ブームの中、北アルプスの主要な山々に新たに9つの山小屋が出来た事などもあって、新しい登山コースが発表されます。
また田部重治の登山誌【山と渓谷】も発売され、12月には国産初のピッケルが作られます。
|
|
【山と渓谷】には国内の登山ルートの景色や実際の縦走の様子や装備などが記載され、いわゆるマニュアル本と言えるものです。
定価は2円50銭で、円本ブームの中では高額でしたが、登山誌の名著と言われるようになります。
(写真4-14) |
|
また、翌年には登山雑誌の【山と渓谷】、次年には【アルピニズム】【ハイキング】などが出版され、時代の流れにそって登山はブームとなってゆきます。 |
|
|
19 |
地下鉄工事中の上野広小路で突如大規模な陥没が発生し、あわや市電も墜落するかとなります。
幸いけが人3人で済みますが、この後も陥没事故が発生します。
|
|
|
23 |
富士山麓電気鉄道(現富士急行)によって、大月〜富士吉田間が開業します。
これによって富士山登山が更に近づく事になります。
【昭和8年・修学旅行 富士山麓鉄道バス】は、同じ富士山麓電気鉄道のバスですが、電車よりも早く昭和2年に営業を開始しています。(4-15) |
|
|
23 |
大阪〜東京間を走る400マイルマラソン競技大会が開催されます。
500人の参加希望者から10人が走り、8日間をかけて走りました。 |
|
|
30 |
有楽町の映画館・邦楽座で、トーキー設備が整ったとして楽士の解雇を発表します。
この傾向は次第に強くなり、後に争議にまで発展することになります。
が時代の流れは変わらず、楽士はチンドン屋に変わる者も出てきます。
|
|
4-14.昭和4年刊行の山と渓谷 |
4-15.富士山麓鉄道バス・昭和8年 |
|
【7月】
|
1 |
東京でメートル法が実施されます。
既に明治18年にはメートル法の条約に加入し、大正10年には尺貫法を廃していますが、庶民には浸透しない中での実施でした。
が、実際には混乱が生じた為、本格的な採用は戦後となります。 |
|
|
1 |
《国宝保存法》がこの日施行されます。
明治から続く《古社寺保存法》では寺院等の建造物や宝物を国宝対象にしていたものの、個人や国の所有物は対象外であった為、売買や海外流出が絶えなかった事から、個人所有物も国宝と定める法律が定められました。
|
|
この法律は昭和25年に廃止され文化財保護法に変わりますが、この国宝保存法が制定されて以降、東大寺の紙本墨書法華経や雪舟の山水図、姫路城天守などが国宝に指定されて行きます。 |
|
|
10 |
浅草水族館で榎本健一らの【カジノ・フォーリー】が結成されます。
後に大人気となるエノケンですが、この時は不人気の為2ヵ月後には解散することになります。 |
|
|
15 |
日本航空輸送会社によって、東京(立川)〜大阪〜福岡間の定期旅客飛行が始まります。(写真4-14)
東京〜大阪を2時間半で結び料金は30円です。
平均給料が40円に満たない時代で、国鉄の同区間の3等運賃が6円4銭ですので、割高な料金から一般にはなかなかなかなか定着せず、しばらくは国の補助金で運営することになります。 |
|
|
20 |
この日ハエ取りデーが実施され、東京市内では5万4千匹の蝿が捕まえられます。
|
|
4-16.昭和初期の姫路城/絵葉書 |
4-17.日本航空輸送株式会社ポスター |
|
【8月】
|
9 |
東京市内3箇所に試験的な横断歩道が設置されます。 |
|
|
19 |
ドイツの大型飛行船【ツェッペリン伯号】が世界一周の途中に霞ヶ浦海軍航空隊施設に降り立ちます。
この時は上野から土浦までの臨時列車が出て30万人もの観衆が出迎えしたとの事ですが、東京上空も遊覧し、翌日の新聞の見出しには『君はツェッペリンを見たか!』の文字が踊ります。(写真4-18)
また少年倶楽部の付録にはツェッペリン号の紙模型が付いたり、巷のタイヤキなどはツェッペリン焼きに姿を変えた程の人気でした。
(写真4-15) |
|
このツェッペリンの空気抵抗を軽減する為の流線型の形も注目され、以来この形は建築物や万年筆、女性のスタイルもなで肩の流線型がもてはやされるようになります。 |
|
|
・ |
またこのツェッペリン号がドイツからの乗客の食料保存用に持ってきたのが【ドライアイス】です。
この時が日本に初めて登場した【ドライアイス】ですが、以降日本でもドライアイス作られるようになり、鉄道省などでも生鮮食品の輸送にそれまでの冷水や氷をやめ、ドライアイスを用いるようになります。 |
|
|
|
4-18.両国橋上空のツェッペリン
/土木図書館蔵 |
|
【9月】
|
6 |
小津安二郎監督の映画【大学はでたけれど】が封切られます。
大学は出たものの就職が出来ない若者をコメディタッチで描いたサイレント映画ですが、実際に大卒就職率が12%と報道されるこの時代と相まって映画は大ヒットとなり、この言葉は流行語にもなります。
|
|
|
14 |
過激サービスが問題となりカフェーの取締りが厳しくなる中、銀座のカフェーでは学生お断りの看板が設置されます。 |
|
|
15 |
東京と下関を結ぶ特急列車に《富士》と《桜》という名が付けられましたが、これが列車愛称の始まりとされます。
新幹線の登場に伴い、《富士》は東京〜大分間の寝台特急列車の名となり、80年に渡って親しまれてきましたが、平成21年3月13日(2009/3/13)をもって寝台特急の廃止と共に《富士》の名の列車もなくなります。(写真4-19) |
|
|
25 |
この月小林多喜二の【蟹工船】が発売され、初版で1万5千部の売り上げを記録し、後に発禁処分になるまで3万5千部の売り上げとなります。
この年の雑誌【戦旗】の4月号〜6月号に発表された作品ですが、その反響は大きく日本プロレタリア文学の代表作とも言われ、舞台化もされ更に5カ国語に翻訳されます。
|
|
【蟹工船】は戦後も舞台で何度も上演され、また映画化もされます。
更に近年になってからもブームになるほどの反響となり、再版が続くベストセラー作品となりました。
写真は実際の蟹工船の写真です。(写真4-20) |
|
因みに前年発表した【一九二八年三月十五日】は、昭和3年の共産党摘発こと《3.15事件》を描いた作品で、これらの作品を出版したことから、4年後の昭和8年に逮捕され、築地署で拷問され29歳の若さで死亡することになります。 |
|
|
・ |
ブリキのサルがシンバルをいを打つおもちゃを見たことがある人は意外と多いと思いますが、初めて登場したのはこの昭和4年です。
おもちゃのベストセラーとも言える商品の一つと言えるでしょう。
|
|
4-19.東京駅に到着する寝台特急富士 最後の日
/ウィキペディア |
4-20.実際の蟹工船の写真/ウィキペディア |
|
【10月】
|
1 |
東京、新宿、上野、品川、渋谷、池袋の各駅に切符の自動販売機が設置されます。 |
|
|
1 |
浅草に地下鉄の駅ビル(地下鉄ビル)と同時に地下鉄食堂がオープンします。(写真4-21)
高さ40mで地上6階地下1階の駅ビルは、当時の浅草では群を抜いて高いビルで、観光名所ともなっており、川端康成の浅草紅団にも度々登場します。
写真にも見えるように屋上もあり、隅田川を挟んで筑波山が見え、反対側からは上野公園はもちろん、九段坂からニコライ堂、帝国議事堂なども望めたようです。
|
|
この地下鉄食堂の開店当時のメニューは以下のようになります。
ビフテキ |
30銭 |
カツレツ |
30銭 |
コロッケ |
30銭 |
ハムサラダ |
30銭 |
ロオルキャベツ |
30銭 |
ビイフシチュウ |
30銭 |
エビフライ |
25銭 |
ライスカレエ |
25銭 |
お子様料理 |
25銭 |
ランチ |
35銭 |
|
ご飯 |
5銭 |
パン |
5銭 |
コオヒ |
5銭 |
レモン・ティ |
7銭 |
ソオダ水 |
7銭 |
ケエキ |
10銭 |
パインナップル |
10銭 |
果物 |
10銭 |
アイスクリイム |
10銭
|
|
この地下鉄ビルや地下鉄銀座線については、【昭和初期の絵葉書 地下鉄銀座線2】
にも詳しく記載しています。 |
|
|
1 |
小西六(現コニカ)から初の国産写真フィルムの【さくらフヰルム】が発売されます。
性能の良さから人気となりますが、ベスト判(4cm幅)が8枚撮りで50銭でした。 |
|
|
8 |
丸ビルの丸菱が、百貨店として初めて月賦販売を開始し、サラリーマン層に好評となり、以降松屋、三越、白木屋などでもはじめます。 |
|
|
11 |
日本を代表する豪華客船【浅間丸】が横浜からサンフランシスコへ向けて出港します。
前月の9月15日に竣工しましたが、同時期に秩父丸や龍田丸も造船中で、竣工後は皆北米航路に就航し、豪華客船時代の幕開けとなります。(写真4-22) |
|
|
15 |
日比谷公会堂が竣工します。(写真4-23)
現在は講演会などで利用される事が多いものの、座席数2700席の日本初の本格的音楽ホールとして開館し、戦後しばらくまでは、クラシック公演など多くの演奏会がこの会場で開催されていました。
因みに社会党委員長浅沼稲次郎氏刺殺事件は、ここで講演中に起こった事件です。 |
|
|
24 |
ニューヨークの株式市場で大暴落となり、これによって世界大恐慌へ進むことになりますが、この日は《暗黒の木曜日》と言われるようになります。 |
|
|
26 |
先に結成して間もなく解散した【カジノ・フォーリー】が再び浅草にて結成します。
ただ、今回も客入りが悪く、再び解散と思われますが、新鋭作家の川端康成が、東京日日新聞に《浅草紅団》の連載をはじめ、カジノ・フォーリーの事を取り上げた事から人気となり、エノケン人気もうなぎ登りとなります。(写真4-24)
|
|
4-21.地下鉄食堂が入る駅ビル/絵葉書
|
4-22.竣工当時の浅間丸/世界画報 |
4-23.昭和4年竣工の日比谷公会堂 |
4-24.昭和5年頃のエノケンのカッパ行列/テプコ浅草館蔵
|
|
【11月】
|
3 |
日本航空輸送会社が、フォッカー・スーパーユニバーサル機を用いて東京、大阪、福岡にて遊覧飛行を開始します。
各地とも1回の飛行は30kmほどを10分間飛び、料金は5円で、日曜祭日の遊覧飛行でした。
|
|
写真は同じような遊覧飛行ですが、これよりも後の昭和16年のものです。詳しくは【昭和13年頃・遊覧飛行】をご覧下さい。(写真4-25) |
|
|
11 |
人気の同潤会が分譲住宅を荻窪と赤羽に100戸建て、その抽選が内務省にて行われますが90倍の倍率となります。 |
|
|
17 |
震災復興事業の一つである浜町公園に、東洋一のプールが完成し開業します。 |
|
|
28 |
桜田門外に建設中の警視庁庁舎に対し、高い塔の部分が宮城を見下ろす格好になり不敬であるとし、塔部10mを撤去する事となります。
|
|
4-25.昭和16年頃の遊覧飛行
|
|
【12月】
|
10 |
船が通る度に橋が跳ね上がる可動橋としては、勝鬨橋が有名ですが、それより以前に作られた橋が、芝浦可動橋です。
かつて汐留から芝浦日の出方面にかけてあった貨物専用の臨港線に架けられた橋で、当時は東洋一の可動橋と言われていました。
|
|
汐留がかつて貨物専用の大きなエリアだった事を記憶している方も多いと思いますが、汐留駅廃止と同時に臨港線は廃線となり、跡地には現在ゆりかもめが通っています。 |
|
右は当時の絵葉書で、《芝浦跳開橋 ハネアゲ橋》と記載されています。橋の向こうが広々としていますが、現在はレインボーブリッジとお台場が見える場所です。(写真4-26) |
|
|
15 |
震災で一部倒壊したニコライ堂が復興し成聖式が行われます。 |
|
|
16 |
東京駅の玄関口である丸の内の反対側に八重洲口が開設されます。
この頃はまだ外堀があり、八重洲橋が架かり、あくまでも東京駅の裏側という町でした。
|
|
更に近くの銀座1丁目界隈には大根河岸や竹河岸、白魚河岸といった市場があり、銀座とは思えないような町並みでした。 |
|
江戸時代に遡ると、徳川家康入府の折に、大工や職人が駿府から移り住んだ事から、大工職人の大工町や檜物町、大鋸町、畳職人の畳町などの町名が付いていました。
|
|
写真は現在首都高速道路が走る銀座1丁目と京橋近辺で、まだ堀があった昭和初期当時の大根河岸の様子です。(写真4-27)
手前に舟があり堀が見えますが、現在の首都高速東銀座出口から警察博物館にかけての一帯と思われます。 |
|
|
・ |
この月に震災復興事業の一環として、築地の築地川に三叉の三吉橋が完成します。(写真4-28)
現在の中央区役所の交差点にこの橋がありますが、大正昭和初期の頃は、荷舟や屋形船が行きかう情緒ある場所だったようです。
|
|
その築地川も、東京オリンピックに伴う高速道路建設の為埋め立てられ、現在三吉橋の下は首都高速道路が通っています。
丁度銀座の裏通りになり交通量もそう多くはない場所ですが、今でも綺麗な三叉の橋を見る事が出来ます。(写真4-29) |
|
|
・ |
この頃に今までの鉱石ラジオとは違う、交流式真空管ラジオが登場し、ラジオが益々浸透してゆきます。
|
|
4-26.芝浦可動橋/絵葉書
|
4-27.大根河岸堀沿いの家屋/絵葉書
|
4-28.築地川に架かる三吉橋/絵葉書
|
4-29.現在の三吉橋/平成22年
|
|
|
・ |
昭和初期は、舶来ものがとても人気で、新聞広告にも海外製品の広告が多く掲載されました。(写真4-309)
自動車のフォード、シボレー、バイクのハーレーダビットソン。
カメラや電気冷蔵庫、そしてジョニーウォーカーやワインなど次々と人気となり、またそれらを見習って国産製品が作られてゆきます。 |
|
|
・ |
【とんかつ】が登場したのもこの年と言われています。
それまではカツレツというものはあったものの、肉が薄く衣が厚いものだったそうで、それを厚い肉にしてカツレツと分けるようにし、豚のトンと英語のカットレットをあわせて【とんかつ】と呼ぶようにしたのが、上野御徒町【ポンチ軒】というお店と言われています。
ところが【とんかつ】とはどういう食べ物か判らないため、最初は注文する人が少なかったそうですが、昭和6年〜7年頃上野に【楽天】が開店し、また講釈師の円右が高座で話題にしたところから人気となったそうです。
|
|
4-30.昭和初期の舶来製品広告
|
|
この年の流行 |
童謡 |
雨降りお月、鞠と殿様 |
玩具・遊び |
卓上ピアノ(チンチンピアノ改良型)、ブリキの猿 |
流行歌 |
東京行進曲、君恋し、紅屋の娘、モンパリ |
舞台・映画 |
モン巴里(宝塚少女歌劇)、大学は出たけれど、東京行進曲、生ける人形 |
文化・社会 |
ステッキガール、プロレタリア文化、登山、麻雀 |
言葉 |
大学は出たけれど、君はツェッペリンを見たか、流線型、ラッシュアワー |
モノ
|
キツネの襟巻き、さくらフヰルム(国産フィルム)、クレパス |
本・雑誌・記事 |
山と渓谷、蟹工船(小林多喜二)、浅草紅団(川端康成) |
この年の初登場 |
エレベーターガール、国産ウイスキー、ターミナルデパート(阪急百貨店)、さくらフヰルム(国産フィルム)、ガストースター、とんかつ、立体駐車場 |
この年の物価 |
ハヤシライス20銭、中華そば10銭、列車食堂の和食50銭、サントリーウイスキー4円50銭、ジョニーウォーカー赤5円、日本酒2等1升1円70銭、背広三つ揃い50〜70円、下駄(桐)2円20銭、蛇の目傘1円50銭、銭湯5銭、新聞1ヶ月1円、電話新設料1,120円、地下鉄乗車10銭、航空運賃(東京〜大阪)30円、工場労働者平均給料男子2円65銭・女子99銭、記念写真(手札4枚1組)2円50銭、幼児用三輪車5円50銭 |
|