昭和3年の出来事 1928  
【1月】
1 明治神宮の初詣は60万人となり、創建以来の参拝客を記録します。
1 またNHKラジオ放送の新年の第一声はニワトリの鳴き声で、マイクの前に鶏を用意して流しました。
12 大相撲春場所で、初めてラジオ実況中継が行われます。
ここ最近の大相撲は、前年の力士離脱などから興行不振が続いた為、さまざまな試みがなされますが、実況中継を機に行われた一つが、仕切り時間を設ける事でした。
かつては仕切り時間は無かったのですが、放送時間内で中継する為、仕切り時間が10分に設けられ、《まった》をした場合は敗者となる事もありました。
また新聞等にも相撲興行の広告が出されるよになりますが、こうしたことから結果大相撲は人気を盛り返す事になります。
右はこの日の初日興行の広告です。(写真3-1)



3-1.当時の新聞広告
【2月】
1 日本ビクター蓄音機から、初の電気で吹き込んだレコード【出船の港】が発売されます。(作詞:時雨音羽/作曲:中山晋平/歌:藤原義江)
但しアメリカビクターで吹き込み赤盤(洋番)扱いになった事などから第1号には認定されませんでした。
10 関東大震災で被災した東京でしたが、この日に隅田川に架かる言問橋が、そして翌月には清洲橋が竣工します。
震災復興事業として急ピッチで隅田川に橋が架けられますが、この時点で相生橋、永代橋、駒形橋、蔵前橋、千住大橋、言問橋、清洲橋の7橋となり、この後も吾妻橋、厩橋などが架けられて行きます。
右は【昭和6年・言問橋 隅田公園】にも写る言問橋で、伯父の兄弟が開園した隅田公園に遠足にきた時のものです。(写真3-2)
11 第2回冬季オリンピックがスイスのサンモリッツで開催され、日本人選手も初参加します。
20 第16回総選挙は、初めての男子普通選挙で行われました。
これまでの選挙権は納税額によって選挙資格が設けられていましたが、それらを撤廃し25歳以上の男子に選挙権が与えられて行われた選挙でした。



3-2.昭和6年当時の言問橋
【3月】
11 麒麟麦酒からキリンレモンが販売されます。
それまではビールの販売をしていました麒麟麦酒ですが、新たに清涼飲料水も販売する事になりました。
この頃の他社のサイダーはいずれも着色料を使用し、瓶にも色が付いていた所を、キリンレモンは
「絶対ニ人工着色料ヲ施サズ」と宣言し、更に瓶も清涼感のある無色を用います。
しかも他社サイダーよりも2銭安い25銭という値段にしたことから、次第に人気となります。
右は当時の広告ですが、キリンレモンと同時に、キリンシトロン、キリンサイダーも発売されます。
(写真3-3)
15 先月の初めての普通選挙に伴い、この日に日本共産党員に対する一斉検挙が行われ、後に《3.15事件》と言われます。
治安維持法に反すると言う事ですが、これ以降の検挙者は更に増え続けてゆく事になります。
15 言問橋に続き清洲橋が竣工します。
清洲橋の名は、対岸の清澄町と中州町を結ぶ事から命名されますが、橋はドイツライン川のケルンの吊り橋をモデルにして作られ、隅田川の架橋の中で一番美しい橋といわれています。(写真3-4)
15 また、この日に上野にて、シェパード展覧会が開催され、軍用犬の実技などが公開されます。
既に説教強盗が世の中を騒がせている事もあって、シェパードは人気となります。
24 3月24日はマネキンの日とされていますが、これは東京上野で開催された御大礼記念国産振興博覧会(写真3-5)の高島屋呉服店の陳列場で、初めて【マネキンガール】が登場し、動く人形として人気となった事に由来します。
マネキンガールとは、着物を着て展示場に立っているだけのマネキンガールですが、昭和3年の初めに大阪で登場します。
当初は【マヌカン】と呼ばれたものの、「これでは人を招かん」「縁起が悪い」ということから「金を招く」という意味も込め【マネキン】と呼ばれるようになりました。
これ以降【マネキンガール】は職業として独立し、あくる年には【東京マネキン倶楽部】が結成され、都内でも数々の同様の【マネキン倶楽部】が出来ます。
こうして女性の職場進出が増えてゆきますが、【ママさん】という言葉が初めて登場したのもこの頃です。
【主婦之友】に紹介されたのが最初と言われますが、今や当たり前の言葉になっています。


3-3.キリンレモン広告/昭和初期

3-4.竣工直後の清洲橋/ウィキペディア

3-5.御大礼記念国産振興博覧会 会場入り口
/東京都立中央図書館蔵
【4月】
1 横浜崎陽軒が、箱入りのシュウマイを販売開始します。
冷めても美味しい食材を・・・と言う事で、横浜中華街を食べ歩き、点心職人をスカウトしてようやく完成し人気となります。
4
戦前の花形車と言われる蒸気機関車C53型が完成します。
主に東海道や山陽道で使用されていましたが、戦後廃車となります。(写真3−6)

20 前年から続いた野田醤油(現キッコーマン)でのストライキがようやく決着し342人が復職します。《野田醤油労働争議》
前年9月16日に全労働者の6割以上の1358名が無期限ストライキに入って以降、暴力団や右翼も関わり、警察も介入する暴力沙汰も起こっていました。
この月1日には千葉から東京に向けて行進していた2000人の請願団が江戸川で警官隊に阻止され、3月には天皇陛下への直訴も起こりましたが、218日振りにこの日に解決となりました。


3-6.C53型蒸気機関車/ウィキペディア
【5月】
20 東京一ツ橋に学士会館が落成します。
伯父の東京外国語学校がこの近くだった事から、古い写真にもこの学士会館が写る写真が多く残っています。(写真3-6 右奥の建物)【昭和16年・一ツ橋】参照
因みにこの学士会館の場所には《東京大学発祥の地》の碑や《日本野球発祥の地》といった碑が見られます。
21 日本を代表する医学博士の野口英世氏が、西アフリカで自身が研究中の黄熱病に冒されて51歳で亡くなります。
最近も上野の国立科学博物館でも野口英世展が開催されましたが、科学博物館の近くには博士の功績を称えて【野口英世】像が建っています。
(写真3-8)
また昭和24年及び平成20年には切手にもなり、現在流通している千円札も野口英世氏が描かれています。(写真3-9)

3-9.昭和24年発行切手
21 大阪中央放送局で、初のラジオドラマが放送されまます。
以降ラジオドラマが次々製作されて行きます。
27 高知の桂浜に坂本竜馬の銅像が建ちます。
『地元を代表する英雄なのに銅像が無い・・・』という事から高知県青年団の募金を募り、秩父宮殿下の下賜金を受け、土佐出身の彫刻家に依頼して完成します。
戦時中の金属回収令にて数々の銅像が供出されますが、この像は提出を免れました。
この当時流行していたプロレタリア文学の文芸雑誌【戦旗】が創刊されたのがこの月です。
後に小林多喜二の【蟹工船】などを掲載しますが、検閲を受けしばしば発禁処分となったりします。
上野の東京音楽学校奏楽堂にパイプオルガンが徳川頼貞氏によって寄贈されたのが5月です。
現在も日本最古のパイプオルガンとして上野の奏楽堂のホールで見る事ができます。(写真3-10)
この5月に、日本における国産吹き込みレコードの第1号となる【波浮の港】(作詞:野口雨情/作曲:中山晋平/歌:佐藤千夜子)が発売され、大ヒットとなります。
2月に発表された【出船の港】は赤盤扱い(洋版)でしたが、波浮の港は国内の日本ビクターで吹き込まれたことから、国産吹き込みレコード第1号とされています。



3-7.昭和16年の学士会館(写真右)

3-8.上野公園内の野口英世博士像

3-10.上野奏楽堂の日本最古のパイプオルガン
【6月】
1 三越呉服店と大丸呉服店が、共に店名から呉服店名称を取り、三越、大丸と改称します。
4 6月4日は《虫歯予防デー》ですが、この頃日本歯科医師会によって提唱されます。
戦時下の昭和14年からは5月4日になり、その後予防デーそのものもなくなります。
戦後の昭和24年になって《口腔衛生週間》として改めて定められ、昭和33年に《歯の衛生週間》と現在の名称に変わり、6月4日〜10日で実施されます。
この頃になって、御大礼記念事業の一環として東京市内の井戸20万個にコンクリートの蓋がされます。
雨水などが入る事による伝染病予防の一環ですが、現在も残っている井戸は、蓋がされた状態です。
写真はかつて樋口一葉が住んでいた文京区本郷の居住地跡に残る井戸で【一葉の井戸】とも言われています。(写真3-10)



3-11.一葉の井戸
【7月】
1 5月に発売された《波浮の港》が、今度は藤原義江の歌で米国ビクターとり発売されます。
14 有楽町の数寄屋橋が石橋として完成します。
写真は架橋当時の数寄屋橋で、後ろは朝日新聞社屋です。(写真3-12)
数寄屋橋の最初は寛永6年(1629)に江戸城外堀の見附として木製の橋が架けられます。
現在交番のある場所近辺に橋が架かっていました。
明治時代になって橋の場所は変り、この年になって木製から石橋に新しくなります。
この数寄屋橋も昭和33年に高速道路の建設に伴い、堀が埋め立てられ、橋も撤去され朝日新聞の代わりに有楽町マリオンが建ち現在の数寄屋橋交差点のようになります。
18 震災復興三大公園のひとつである錦糸公園がこの日開園します。
午前9時から開園式が行われ、小学生のマスゲーム、陸軍楽隊演奏、素人相撲、 各種演芸等が盛大に開催されます。
震災復興三大公園とは、地震によって発生する火災を食い止める防火帯として大規模幹線道路と共に位置づけられ整備されたもので、他に昭和4年開園の浜町公園と昭和6年開園の隅田公園があります。
右は開園当時の錦糸公園です。
28 第9回オリンピックアムステルダム大会が開かれ、日本選手団54人が参加します。
この大会は陸上競技で初めて女性参加が認められた大会でもあります。



3-12.昭和3年架橋の数寄屋橋/ウィキペディア

3-13 .昭和3年開園の錦糸公園/ウィキペディア
【8月】
1 兵庫県にて日本初の無軌条電車ことトロリーバスが登場します。
阪急急行電鉄(現阪急電鉄)が開発した温泉地が急勾配の為、当時のバスでは登坂不能な事から登場しますが、営業不振の為4年で廃線となります。
一方昭和7年には京都で交通機関として開業し、市電よりも設備投資が安い事から新しい交通手段として注目され、戦後は東京都内に4路線が設置されましたが、風雨に弱かったり渋滞を招きやすいと言う事から昭和46年には姿を消します。
2 オリンピックの陸上3段跳びで織田幹雄が優勝し、8日には水泳200m平泳ぎで鶴田義行が優勝し、念願の金メダルを受賞します。
また陸上女性初参加の中、人見絹江が陸上800mで銀メダルとなります。
この夏の話題として、《東京赤坂弁天橋付近にお化けが出る》との噂が広がったそうです。
その噂を聞き付け、お化け見たさに毎夜1000人を超す野次馬が出て、あまりの人の多さに出店も現れたそうです。
が、そんなに沢山の野次馬を相手には、お化けも出るはずはなく、何時しか下火となったそうですが、後日牛蛙の鳴き声と判明したそうです。
右は昭和初期の弁景橋ですが、確かにそういう噂がたってもいい雰囲気があります。(写真3-14)


3-14.昭和初期の弁慶橋/絵葉書

【9月】
11 電信の際の濁点は1文字と決定されます。
これによって電報などの《ガ》は2文字と計算される事になります。
20 大礼記念京都博覧会が開催されますが、この時の展示として東洋初のロボット【學天則】が登場します。(写真3-15)
大阪毎日新聞社が出品たもので、高さ3.5mで金色の肌をし、手足や顔の表情が圧縮空気で動くと言うものでした。
各地の展覧会などで展示され、その後ドイツに渡りますが、行方不明になってしまいます。
最近になって【學天則】のレプリカが再現されて大阪市立科学館で公開されました。
この年は大礼記念と称した博覧会ブームで、東京、京都をはじめ、仙台名古屋、岡山など全国でも9つの博覧会が開催されました。

3-15.昭和3年架橋の数寄屋橋/ウィキペディア
【10月】
12 SKDの前身である東京松竹楽劇部が浅草松竹座を本拠として発足します。
この年の第一期生には水の江滝子ら16名が入団します。
その後は【西の宝塚、東の松竹】と称され一時代を築く程になります。
12 京都の平安神宮に日本最大の大鳥居が完成し人気となります。
21 わが国初の空中ケーブルカーが比叡山に完成します。
既に大正14年と昭和2年には、叡山ケーブルと坂本ケーブルの2本が出来ていますが、比叡山空中ケーブは山頂までの500mを結ぶロープウェーです。
当時の絵葉書にも写りますが、まさに箱型のケーブルカーです。(写真3-16)
またこの月には日本航空輸送株式会社が創立され、その後日本で初めての定期旅客輸送が始められました。
当時は東京(立川)〜大阪(木津川尻)間を、毎日2時間半から3時間強で結んでいました。
更に福岡から平壌、大連までも運航していましたが、本格的な航空旅客時代の幕開けとも言えるでしょう。
右はこの頃の立川空港です。(写真3-17)
浦上商店(現ハウス食品)が、『おいしくて滋養になる家庭ライスカレーの素』として、即席カレーの【ハウスカレー】を発売します。
それまでは【ホームカレー】の名で大正15年から製造販売されていましたが、この時から名称を変えて以来現在まで続くヒット商品の一つです。



3-16.昭和3年開通の比叡山空中ケーブル/絵葉書

3-17.昭和初期の立川空港/絵葉書
【11月】
1 ラジオ体操が初めて全国中継されます。
正式には《国民保険体操》と言いますが、アメリカの保険会社が健康増進の保険広告の為に考案したものを参考としたと言われています。
昭和天皇即位の御大典記念として放送され、その後全国でも放送されることになります。
終戦後一時期中断はしたものの、再び再開され長く続いている放送です。
現在も上野公園では、朝の放送と共に大勢の人たちが体操をしていますが、傍には【ラジオ体操ひろば】の碑が建っています。(写真3-18)
また一時中断したラジオ体操が戦後再開された際、その会場となった台東区松葉公園には、【ラジオ体操中継放送再開発祥の地記念】が立っています。
現在もこの隣の小学校の校庭では、夏休みになるとラジオ体操が盛大に行われており、その盛大なラジオ体操を見ようと、観光バスまでも通っていました。(写真3-19)
5 NHKの中継網が完成したことで、NHKラジオの全国中継が実施され、天気予報や時報なども放送されます。
10 京都御所において、昭和天皇の即位の礼が盛大に行われます。
京都御所周辺には徹夜で並ぶ人など10万人もの群集が押し寄せます。
18 アメリカでウォルトディズニーが短編アニメーション【蒸気船ウイリー】を発表します。
この時初登場したのがミッキーマウスで、以降11月18日はミッキーマウスの誕生日とされています。


3-18.ラジオ体操ひろばの碑/上野公園

3-19.松葉公園近くのラジオ体操/平成18年夏
【12月】
1 北神田に神田青果市場が完成します。
この市場の歴史は古く、江戸初期から青物商が集まり、慶長年間の頃には幕府御用市場として栄え、千住駒込と並んで江戸三大市場と称されていました。
明治時代に入って政府公認市場と引き継がれ、規模を拡大してゆきますが、関東大震災によって被災し全焼します。
そしてこの日、場所を現在の秋葉原北側に変えて新装開場し、平成元年まで続きます。
現在はこの市場の機能を太田市場に移転しておりますが、秋葉原駅近くには【神田青果市場跡地】の石碑があり、神田須田町には【神田青果市場発祥地】の記念碑があります。
右は開場当時の神田青果市場です。(写真3-20)
13 この時の内閣統計局にて、大阪の人口が233万3800人で日本一と発表されます。
東京の221万人を抜き、ニューヨーク、ロンドン、ベルリン、シカゴ、パリに次いで世界でも6番目の大都市となります。
クリスマスの夜にパーティーをする事は今や当たり前の光景ですが、昭和3年の記事の中で、
《銀座にはクリスマスの飾りが、店ではツリーやケーキの販売、赤い服のサンタの扮装も町に登場。 》
《この頃からクリスマスの夜に男性がどんちゃん騒ぎをする風潮が広がる》
とありましたが、昭和初期にはクリスマスが定着していた事がわかります。



3-20.昭和初期の神田青果市場/土木図書館蔵

ちゃぶ台】が一般家庭に普及したのも昭和3年頃からです。
それまでは一家の長を筆頭に、その身分に応じて違った形のお膳だったものが、ちゃぶ台を通して身分制度がなくなり、いわゆる一家団らんという風景が定着していったそうです。
伯父の写真の中にも、祖父がお膳の前に座り、伯父たち兄弟は座ってお供をしている写真がありました。
右は昭和10年頃の4人家族の食卓を模したものですが、丸いちゃぶ台を囲んで食事をする一家団らんの様子が伝わってきます。(写真3-21)


3-21.昭和初期のちゃぶ台/新宿歴史博物館
この年の流行
玩具・遊び チャンバラごっご、国産ハーモニカ
流行歌 波浮の港、出船の港、君恋し
舞台・映画 東京松竹楽劇部、丹下左膳シリーズ
文化・社会 カフェ、マネキンガール、チャンバラごっこ、シェパード人気、膝上のスカート
言葉 フラッパー、弁士中止、狭いながらも楽しい我が家
モノ
牛乳石鹸、キリンレモン
富士(講談社)創刊、あゝ玉杯に花うけて(佐藤紅緑)
ラジオ 新年はニワトリの第一声、初の大相撲実況、ラジオ体操、初のラジオドラマ放送、ラジオ聴取契約50万突破
この年の初登場
マネキンガール、牛乳石鹸、崎陽軒しゅうまい弁当、ラジオ体操、キリンレモン
この年の物価
崎陽軒シュウマイ1箱1円50銭、味の素中瓶58銭、マグロ刺身1人前20銭、三矢サイダー21銭、牛乳9銭、ゆかた90銭、子供のお小遣い平均2銭、葉書1銭5厘、市電7銭、国鉄3等運賃(東京〜大阪)6円4銭、巡査初任給45円、百貨店女子初任給20〜25円、ヤマハピアノ550円、シボレー4ドアセダン2,495円

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