昭和2年の出来事 1927 ← ・ →
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【1月】
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1 |
この年の年賀状は、大正天皇の崩御で昨年12月26日から扱いが中止となり、それまでに受け付けた分は元旦に配達されましたが、東京で元旦に配達された年賀状は、昨年の3500万通に対して258万通でした。 |
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5 |
東京と大阪で分かれていた相撲協会が合併し、新たに《日本大角力協会》として発足します。
江戸から続くしきたり等も変化して行きました。
翌昭和3年には大相撲ラジオ中継も始まりますが、仕切りの時間もそれまでは無制限だったものが、ラジオ中継の時間の問題もあって、制限時間が設けられるようになりました。 |
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19 |
カレーパンが考案されたのもこの頃で、東京森下の【名花堂(現カトレア)】が【洋食パン】の名で考案し、この月19日には、実用新案として出願されます。 |
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またこの頃アメリカから【青い目の人形】3百体が到着し、全国の小学校に親善大使として贈られます。
以来1万3千体の人形が贈られる事になります。
写真は人形交換を進めた渋沢栄一氏と青い目の人形です。(写真2−1)
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2-1.渋沢栄一氏と青い目の人形
ウィキペディア |
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【2月】
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7 |
大正天皇の大喪儀が行われます。(写真2-2)
地方から葬列を見送る為に集まった人々は200万人とも言われ、赤坂見附や虎ノ門、霞ヶ関などでは人々がなだれ込んで圧死者2名、重軽傷者721人も出る事になります。(写真2-3) |
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11 |
既に大正15年に【現代日本文学全集・全63巻】が1円で発売されていましたが、この日の新聞に新潮社から【世界文学全集】三十八巻を1冊1円で販売する1頁広告が掲載されます。(写真2-4)
2-4.世界文学全集新聞広告 |
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広告には《これだけ揃へば一生退屈せず》の文字が書かれ、更に3月1日には見開き新聞広告も打ち出され、世界的記録の予約が殺到することになります。 |
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その後、【現代大衆文学全集】【大日本百科全集】など各社が1円の文学全集を販売し始め、これら【円本】と言われ、以降三百を超える円本が出版され、空前の《円本ブーム》となります。 |
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ブームとなれば競争にもなり、次第に1円が80銭となり更に50銭となり、値下げ競争となります。 |
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この円本ブームに続き【円タク】もブームとなります。
人力車に変わってタクシーが登場したのは大正元年ですが、当初は初乗り料金が1マイル60銭でした。
その後関東大震災以降タクシーの需要が増えつつも、料金設定がされず、バラバラだったものを、市内は一円均一で乗れるというタクシーが登場したことから【円タク】と言われます。
大阪では大正14年に登場していますが、その後東京にも進出し、この年になって急激に増えてゆきます。 |
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実際には駅構内の円タク会社案内人や、流しの運転手による価格交渉がなされ、一円より安かったそうですが、円タクが増えるにつれ客の争奪も激しくなり、11月には駅構内案内人の全廃がなされます。 |
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伯父が撮影した写真にも円タクが写っているものがありますが、右は昭和9年上野桜木の通り沿いでの円タクです。(写真2−5)
詳しくは【昭和9年・言問通り 1934】を参照ください。 |
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また江戸東京博物館では昭和6年型のフォードA型4ドアセダンの、実際に営業していた円タクが展示されています。(写真2-6)
同時に車両横には当時の木製信号も展示されています。
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円本や円タクの他にも、伯父が手にする【円カメ】こと1円で買えるトーゴーカメラなども昭和4年頃に登場します。
この【円カメ】については【昭和4年・トーゴーカメラ時代】をご覧下さい。 |
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前月にアメリカからやってきた【青い目の人形】の展示が、東京の松屋、松坂屋、三越、白木屋、高島屋などのデパートで開かれ30万人もの人々が訪れます。
そして翌月には日本青年館にて歓迎会が盛大に行われます。 |
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一粒で三百メートルといえばグリコですが、このグリコがおもちゃ(おまけ)を考案したのがこの頃で、メダルの玩具が入っていました。
その後、カードや面子、バッジ類がなどと時代を経るごとにおもちゃも進歩し、世相を反映するようなおまけになって行きます。
右は古いグリコなどのおまけ(おもちゃ)ですが、バスやトラックに、二眼レフのカメラや三面鏡など、木やブリキを使ったおもちゃです。(写真2-6) |
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2-1.大正天皇御大葬儀・御轜車 虎ノ門御通過/絵葉書 |
2-2.大正天皇御大葬儀・赤坂見附奉送車雑踏/絵葉書 |
2-5.東京上野桜木の円タク/昭和9年撮影 |
2-6.昭和初期の円タク/江戸東京博物館蔵 |
2-7.グリコのおまけ等 |
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【3月】
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3 |
米国から届いた親善大使、青い目の人形の歓迎会が日本青年館で開催されます。 |
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7 |
京都府丹後地区にてM7.3の大地震が発生し、死者2925名、家屋全半壊が35,000戸を超える被害となります。《北丹後地震》
写真はこの地震で横転した網野駅での機関車です。(写真2-8) |
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14 |
国会にて蔵相が銀行が破綻したと失言した事を口火に、各銀行が休業や廃業となり、内閣は総辞職し、銀行取り付け騒ぎなども各地で起こり、いわゆる昭和の金融恐慌がはじまります。 |
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この頃の新聞によると、若い婦人に一番人気のある職業は、銀行員、会社員、官公史、医師、実業家と続き、逆に一番嫌われるのが、音楽家、記者、美術家、地主、家主、芸術家の順となっています。
また女性のなりたい職業としては、偉人、先生、商人、裁縫師、人妻と続きます。
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2-8.地震で転倒した機関車/舞鶴海洋気象台蔵 |
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【4月】
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1 |
新宿から小田原まで82.5キロをを2時間20分で結ぶ小田原急行鉄道小田原線が開通します。
伯父の写真の【昭和7年小田原駅】にあるように、小田原や道了尊、箱根方面の写真が数多く残っていますが、この小田急小田原線の開通によって、小田原・箱根方面がより身近になります。
但しこの時は一部単線で、複線化し急行運行するのはこの年10月になってからです。
更に小田原までノンストップの特急運行が始まるのは昭和10年になってからで当時は《週末温泉列車》という名称でした。
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右は昭和7年当時の小田原駅ですが、前述の円タクの姿も見る事ができます。(写真2-9)
但し開業当初は乗客が少なく、7月には各駅の助役解雇などの処置がとられます。 |
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8 |
数寄屋橋交差点に移転した朝日新聞社屋の落成式が行われます。
軍艦のような外観から通称《軍艦ビル》とも言われましたが、右は朝日新聞が発行した当時の絵葉書の中の一枚です。(写真2-10)
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朝日新聞ビル前には橋がありますが、これは昭和4年に新しく石橋となった数寄屋橋で、下は当時流れていた外堀です。 |
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現在はこの場所には有楽町マリオンが建ち、堀は暗渠となり数寄屋橋も取り壊され、こうした面影はなくなっています。 |
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尚、【昭和初期の絵葉書・朝日新聞】ではこの他の絵葉書を見る事ができます。 |
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16 |
高田馬場と東村山を結ぶ西武鉄道が開通します。
先の小田急線同様に、震災後に急速発展した新興住宅の交通網となります。 |
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29 |
この日に豊島園が前面開園します。
かつてこの一帯を治める豊島氏の練馬城があったことから豊島園と名付けられますが、大正時代には個人の静養地でした。
その後大正15年に庭園が一部一般公開され、この日に全面開園となりました。
豊島園と言えばプールが有名ですが、既にこの開園当初から営業用としては日本初のウォーターシュートがあり、他にも小動物園や音楽ホールなどが設けられています。
この年19月には豊島園駅が開業し、翌3年には大プールも作られ、娯楽施設へとなって行きます。
右は昭和3年当時の豊島園の新聞広告ですが、大プールがある事がわかります。(写真2-10)
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29 |
嵐寛寿郎主演の鞍馬天狗第1作【角兵衛獅子】が封切られ人気となり、以降シリーズ化されます。 |
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国鉄ではこの月から駅構内に広告板を設置し、構内広告が始まります。
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2-9.小田急線小田原駅/昭和7年撮影 |
2-10.昭和初期の朝日新聞社屋/絵葉書 |
2-11.昭和3年の豊島園広告 |
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【5月】
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12 |
大船の食用蛙の養殖業者が、アメリカのニューオリオンズから、生きたザリガニを食用蛙の餌用に持ち込みます。その後逃げ出したザリガニがあっという間に日本全国に繁殖しますが、5月12日は《ザリガニの日》とも言われます。 |
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21 |
リンドバーグがニューヨーク〜パリ間の大西洋横断無着陸飛行に成功します。
愛機スピリット・オブ・セントルイス号の飛行時間は33時間29分でした。
右は愛機の前でのリンドバーグです。(写真2‐12)
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一方日本では、7月に2人乗りの水上飛行機【義勇号】が1ヶ月に及ぶ日本一週を達成します。
(写真2-13)
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蛇腹式カメラのパーレットが発売され人気となります。(25円) |
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29 |
日本で初のオープン選手権として、第一回日本オープンゴルフ選手権大会が横浜の保土谷カントリークラブで開催されます。
参加選手は17名で優勝したのはアマチュア選手でした。 |
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30 |
東洋モスリン亀戸工場で、女子工員の自由外出を求めた争議が起こり、この日会社側が自由な外出を認め解決します。
当時の紡績工場では女子工員の外出はできない状態が通いており、初めて女子工員に外出自由が認められました。
この東洋モスリンでは昭和5年にも大規模な争議が起こります。
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この月童謡の【汽車ぽっぽ】が発表されます。
『お山の中ゆく・・・』ではじまるこの歌の作詞作曲は本居長世で、東海道本線の箱根の山を登る様子を歌にしたと言われています。
因みに『汽車汽車ぽっぽぽっぽしゅっぽしゅっぽ・・・』は昭和14年(1939)に【兵隊さんの汽車】という題で発表され、後に【汽車ぽっぽ】と題名が変わります。
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2-12.愛機の前のリンドバーグ/ウィキペディア |
2-13.日本一週を達成した義勇号/絵葉書 |
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【6月】
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25 |
隅田川にかかる3番目の橋として【駒形橋】が開通します。
震災復興事業の一環として隅田川には橋が架けられますが、相生橋、永代橋に次いで3番目の橋となります。(写真2-14) |
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この月に新宿の中村屋が、【純印度式カリー】を販売します。
当時の一般的なカレーは10銭〜12銭程度だったものに対し、80銭という高級なカレーでしたが、1日200食も出る人気となります。
肉まんを《支那饅頭》と言う名称で販売したものこの頃の中村屋で、肉まんは1個6銭、餡まんが4銭でした。
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2-14.昭和2年架橋の駒形橋/絵葉書 |
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【7月】
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10 |
円本ブームとなる中、岩波書店から岩波文庫が創刊されます。
初回は夏目漱石の《こゝろ》等ですが、価格は一冊20銭からで、円本と違った人気となります。 |
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東京で《はえ打殺しデー》が実施され、4599万6468匹のハエが捕獲されます。
この当時はまだ蝿取り紙は出来ておらず、人気だったのはガラス製の蝿取器やゼンマイ式の蝿捕器です。
この後も《はえ取りデー》として戦前まで実施される事になります。 |
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22 |
宇和島で当時の観測史上最高の40.2度の猛暑を記録します。
(昭和8年7月25日に山形で40.8度が記録され第2位となり、更に平成になってこれ以上の記録が出ます) |
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因みに東京でも7月では33年ぶりとなる35度を記録します。
こうした暑さを凌ぐ避暑客の為、東京〜横須賀間に臨時列車が走ります。、 |
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24 |
作家の芥川龍之介が滝野川の自宅にて服毒自殺をし、36歳の若さでこの世を去ります。
夏目漱石を師に菊池寛を友人とし、羅生門や河童などの作品を世に出し、人気作家の絶頂期の中の自殺で、文壇界はもちろん世の中にも大きな衝撃を与えました。
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雑誌などでは芥川龍之介特集を組むなどしますが、現在も続く《芥川龍之介賞》は、親友の菊池寛が新人作文学賞として8年後に設けたものでです。
写真は大正8年頃に菊池寛(右端)らと一緒に写る芥川龍之介(右2番目)です。(写真2-15) |
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この頃登場し人気となったものの中に【ぴょんぴょんぴょん】がありますが、今で言うダイヤモンドゲームの事です。
その後【ぴょんぴょん占領ゲーム】と言われたり【ダイヤモンドゲーム】と称されるようになりますが、戦時中は外国語が禁止となった為、【進軍ゲーム】と言われたボードゲームの定番です。
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右は古いダイヤモンドゲーム盤です。
二つ折りになっており、文字も右からですので、戦前のゲーム版のようです。(写真2-16)
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2-15.大正8年頃の芥川龍之介/ウィキペディア |
2-16.戦前のダイヤモンドゲーム盤 |
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【8月】
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2 |
警視庁ではカフェーの手入れを行い、モダンボーイやモダンガールなど150人を風紀違反で検挙します。 |
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5 |
震災復興橋梁の一つである【聖橋】が御茶ノ水駅の横に架橋されます。
御茶ノ水を挟んでニコライ堂と湯島聖堂を結ぶ橋と言うことから、この名が付けれれます。
写真は昭和初期の聖橋とニコライ堂です。(写真2−) |
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13 |
この日から甲子園球場で開催された第13回全国中等野球大会において、日本で初めてラジオのスポーツ実況中継がなされます。
その後、水泳や六大学野球、大相撲などの実況中継が続き、以降ラジオは市民に定着してゆきます。 |
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28 |
東京横浜電鉄(東横線)の渋谷駅〜神奈川駅間が開通します。
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2-17.聖橋とニコライ堂/土木図書館蔵 |
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【9月】
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1 |
宝塚歌劇団で初めてのレビュー《モン・巴里》が上演され大好評となります。
当時は《宝塚少女歌劇団》と呼ばれ、演目も今までと全く変り、莫大な制作費がかかる事から、《モン・巴里》は猛反対を受けますが、この年阪急電鉄の社長に就任したばかりの小林一三が承認して公演が決まります。
この時に披露されたのが日本初のラインダンスと、フィナーレの階段レビューで、以来この二つはレビューで必ず演じられる事となります。(写真2-18)
またその下は当時の宝塚劇場です(写真2-19) |
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15 |
この日から山手線、中央線、京浜線の3線で中吊広告が始まります。
料金は1ヶ月で640円という高い広告でした。 |
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21 |
9月21日は《ファッションショーの日》ですが、これは日本で初となる第一回ファッションショーが日本橋三越で開催されたことに由来します。
人気の水谷八重子らがモデルとなり、洋服ではなく和服姿でしたが、ファッションショーの名称が初めて使われます。
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2-18.昭和3年再演さらたモン・巴里/ウィキぺディア |
2-19.昭和初期の宝塚劇場/絵葉書 |
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【10月】
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1 |
消防署の通報電話が112番から119番に変更になります。
緊急用の電話番号は、大正2年前の大正15年1月に112番となりましたが、番号が近すぎる事と、落ち着いてかけられる様にと変更になしました。
もっとも官公庁や企業以外、電話はまだまだ浸透していない頃です。 |
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6 |
米国で初のサウンドトラックを使用したト−キー映画【ジャズシンガー】が封切られます。
こうしたトーキー映画も2年後には日本に上陸するようになります。
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16 |
中国北京郊外の周口店で約60万年前の北京原人の下顎の歯が発見されます。
これは2年後の頭蓋骨発掘へと繋がり歴史的発見となります。(写真2‐20) |
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20 |
早稲田大学に大隈記念講堂が完成し開館式が行われます。 |
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23 |
海軍演習に参加中のN3号飛行船が、悪天候の為伊豆神津島に不時着避難した直後に爆発します。
明治43年に山田式飛行船が開発されて以降、主に海軍の軍用として開発されてきましたが、この爆発を機に飛行船の実用価値が議論されることになります。
写真は当時のN3号飛行船です。
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明治製菓からサイコロキャラメルが発売されたのが、この頃です。(1箱2銭)
キャラメルは既に大正2年に森永製菓から発売されていましたが、パッケージデザインが人気を呼ぶ最初の商品とも言われます。
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2-20.北京原人の頭蓋骨/ウィキペディア |
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【11月】
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3 |
11月3日は文化の日ですが、戦前は《明治節》と言われていました。
明治天皇の誕生日を祝日とするとして《明治節》とししてこの年発足しますが、この年11月3日の明治神宮には80万人もの市民が参拝します。 |
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4 |
先の青い目の人形の返礼として、人形使節58体が米国に送られる事になり、その送別会が行われます。
その後10日に横浜から米国へ向けて出航します。 |
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26 |
隅田川の4番目の橋として【蔵前橋】が竣工します。
橋が出来る前は、御蔵ノ渡や富士見ノ渡などの渡し舟で渡河していました。
また江戸時代には、隅田川の水運を利用して幕府の御米蔵があった場所でもあります。 |
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講談社の雑誌【キング】11月号が、140万部を完売し、初の100万部超えの雑誌となります。
付録の明治天皇を描いた【明治大帝】が、本誌以上の800ページを超えるという豪華本で、付録とあわせて1円という値段もあって、驚異的な売れ行きとなります。(写真2-11)
明治節にあわせての【明治大帝】ですが、のちに単行本として売され、ベストセラーとなります。 |
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また同じく講談社から、新雑誌【富士】の新聞広告が掲載されます。(写真2-18)
昭和3年1月号から発売されるという告知ですが、もっともこの【富士】は既に刊行していた雑誌【面白倶楽部】の名を変えたものです。
更に戦時中には上記の【キング】に統合される事になりますが、この統合は戦時中カタカナが禁止されたことによります。
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2-21.昭和2年キング11月号付録の明治大帝 |
2-22.新雑誌富士の新聞広告 |
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【12月】
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12 |
前月の蔵前橋に続き、【千住大橋】も新しくなって完成します。
千住大橋の歴史は古く、徳川家康が入府した文禄3年(1594)に架けられましたが、以降しばらくは江戸防衛の為に隅田川には橋が架けられませんでした。
その為、隅田川唯一の橋ということから【大橋】と呼ばれていました。
右はその千住大橋の【大橋】の銘です。(写真2-23) |
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30 |
日本で初めての地下鉄となる【銀座線】が開業したのが12月30日です。
上野駅〜浅草駅間の2.2qの距離に、田原町駅、稲荷町駅が出来、料金も十銭均一で自動改札によって入場するスタイルでした。
朝6時の運行から既に人が押し寄せ、午前中だけでも4万人もの人が乗車した記録もあります。
写真は開業当時の絵葉書で、【うへの】と書かれた上野駅ですが、詳しくは【昭和初期の絵葉書・銀座線】を参照下さい。(写真2-24) |
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31 |
上野寛永寺の除夜の鐘が、ラジオにて中継されます。
写真は昭和5年頃に伯父が撮影した寛永寺の鐘ですが、この鐘が放送された事になります。(写真2-25)
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この月大分・別府の亀の井ホテルで地獄湯めぐりの遊覧バスを始めますが、この時に日本で初めて女性のバスガイドが登場します。 |
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因みに東京では大正14年(1925)に、東京周遊バス(現はとバス)で、バスガイドが登場しますが、観光案内には豊富な知識が必要とのことから、男性のガイドでした。 |
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昭和2年は《食の安全》が問われた年でもありました。
結核に罹った牛を食用にしたり、大学の研究に使われ死んだ牛を、牛肉商に卸していたことが判明します。
更に結核の牛の牛乳も流通され、結果結核牛乳から感染するということも起り、市民は混乱する事になります。
この事がきっかけで、牛乳は殺菌される事になります。
今も昔も食の安全を損なうと大混乱のようです。
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2-23.千住大橋の大橋銘 |
2-20.銀座線上野駅の開通記念絵葉書 |
2-25.中継された寛永寺の鐘/昭和初期撮影 |
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この年の流行 |
童謡 |
汽車ぽっぽ(詞・曲:本居長世)、赤蜻蛉(詞:三木露風/曲:山田耕筰) |
玩具・遊び |
日月ボール(けんだま)、ピョンピョンピョン(ダイヤモンドゲーム)、メンコ、ベーゴマ、グリコのおまけ |
流行歌 |
ちゃっきり節、ヴァレンシア |
舞台・映画 |
モン巴里(宝塚)、角兵衛獅子(嵐寛寿郎)、忠治旅日記(大河内伝次郎) |
文化・社会 |
モダンガール、モダンボーイ、小鳥ブーム、青い目の人形 |
言葉 |
おらが大将、モボ・モガ、何が彼女をそうさせたか |
モノ
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小鳥ブーム、円本、ラッパズボン、マヨネーズ |
本、読み物 |
河童(芥川龍之介)、何が彼女をそうさせたか、世界文学全集、赤穂浪士(連載)、岩波文庫 |
ラジオ |
初のスポーツ実況中継が行われる。(8/13全国中等学校野球大会)、、上野寛永寺の除夜の鐘が中継される |
この年の初登場 |
円タク、カレーパン、中村屋の純印度カリー、支那饅頭(肉まん)、地下鉄、グリコのおまけ、スーパーアイロン(松下)、明治サイコロキャラメル、岩波文庫 |
この年の物価 |
白米(3等・1升)48銭、天丼60銭、カレー12銭、ビール42銭、春夏用背広上下38円〜58円、男子日雇平均日給1円40銭、宮田自転車70円、スーパーアイロン3円20銭、明治サイコロキャラメル2銭、あんぱん2銭、ハーモニカ1円50銭 |
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