3-9.昭和5年・寛永寺 2 ← ・ → |
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上は昭和5年頃の【寛永寺根本中堂】で、右下が現在の桜に映える根本中堂です。 寛永寺の事を簡単に触れますと、【大正12年・上野公園大佛下】でも述べましたように、寛永寺は徳川家によって上野公園内に建立されました。 現在の上野公園大噴水の位置に本来の【根本中堂】が建ち、そして現国立博物館の場所に【本坊】が建てられました。 元和8年(1622)、二代将軍徳川秀忠が天海僧正に上野の地を寄進した事が寛永寺の始まりです。 京都の鬼門に位置する比叡山に対し、江戸城の鬼門が上野のお山であることから、東の叡山こと東叡山と称し、不忍池は琵琶湖を、清水観音堂は京の清水寺を見立て、【上野大仏】も京の方広寺の大仏を模して作られたものとも言われます。 寛永2年(1625)に本坊などが建立されたことから、【東叡山寛永寺】とも言われます。 江戸時代の最盛期には、寺社領は現在の上野公園の2倍の広さもあったそうで、36の子院を持ち、将軍家はもとより、諸大名の帰依も受け大いに栄えていたそうです。 特に根本中堂は、間口45m、奥行き42m、高さ32mという壮大なもので、他を圧倒するような大きさだったようです。 因みに現在の根本中堂は、間口17m、奥行き17mですので、いかに当時のものが大きかったか伺えます。 もともと徳川家の菩提寺は芝の増上寺でしたが、寛永寺が建立されてからは、四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定の廟があります。 最後の将軍慶喜公については、既に将軍職を辞した後ということから、谷中墓地に埋葬されています。 |
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こうして江戸時代は将軍家の手厚い庇護のもと反映して行きますが、寛永寺が運命を迎えたのが明治維新の頃です。 戊辰戦争が起り戦火は江戸へと移ると、寛永寺は彰義隊の拠点となり、上野戦争では旧幕府軍として官軍と戦います。 戦は半日で官軍の勝利となったものの、戦の最中、寛永寺には火が放たれ、根本中堂や本坊など建物はほとんど焼き払われ、上野の山は焼け野原となりました。 更にわずかに焼け残った寺院の宝物等も、略奪の為にほとんどが失われたとの事です。 その後明治新政府設立後、寛永寺は現在の場所へ移転する事になりました。 現在の根本中堂は、川越の喜多院の本地堂を明治12年に移設したものですが、クレーン等も無かった時代に移築となると大変な事であったと思います。 それでも川越と上野を結ぶ川の利を生かし、荒川と隅田川の水路を経ての大移築との事だったようです。 左の写真は、昭和5年に撮られた寛永寺【釣鐘堂】と平成19年の同じ【釣鐘堂】ですが、77年経ていてもほとんど変わりません。 寛永寺の鐘といいますと、【時の鐘】が有名ですが、昭和2年にはラジオでこの鐘の除夜の鐘が初めてラジオ中継されます。 童謡の【夕焼け小焼け】にも《山のお寺の鐘がなる・・・》という歌詞がありますように、時計のない時代に庶民に時を知らせたのは、お寺の鐘だったようです。 現在も上野公園内には【時の鐘】が残っていますが、写真の銅鐘は寛永寺境内にあった釣鐘堂で、明治以降にこの地に移築され、その歴史は古く、1682年製造のものと言われています。 因みに根本中堂は1683年建造ですので、今から370年前に建てられた事になります。 370年というと、77年の差なんてひよっこのようなものですね。 |
この寛永寺境内にはさまざまな塚や碑がありますが、一番大きなものは、やはり【上野戦争碑】です。 刻まれた文は彰義隊の残兵「阿部弘蔵杖策」によるものということから、当初は建立に反対され、計画されてから建立されるまで40年程かかったそうです 他にも伊勢長島藩主が写生に使った昆虫の慰霊の為に建てられた【虫塚】の碑。 寛永寺一山を統括する学頭であった【慈海僧正墓】。 境内に自費で学問所を建て、文庫には和漢の書籍教典を揃え、わが国図書館の元祖と言われる、【了翁禅師塔碑】とその【像】。 これ以外にも【緒方乾山墓碑】や、古い【水盤】もあり、また寛永寺の歴史を記した年表も設置されています。
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上野戦争で壊滅的な被害を受けた寛永寺ですが、その中でも四代家綱公と五代綱吉公の勅額門は、かろうじて戦災から逃れ現在も見ることができます。 特に春の桜の季節には、その桜と門がとても綺麗です。 また、門といえば、寛永寺旧本坊表門は戦災を免れ、一時は現在の東京国立博物館の門として使用されていました。 現在は輪王殿の門として、国立博物館横にありますが、戦いの跡ともいうべき弾痕の跡等が、今も生々しく残っております。 尚この事については大正時代【上野公園 いまむかし 2】に詳しく記載しております。 |
寛永寺には一般公開していないものも多いのですが、たまたま娘がここ寛永寺境内にある、【寛永寺幼稚園】に通っていた事もあり、以前父兄を対象にした歴史散策に参加し、それらの施設を拝見した事があります。 最後の将軍徳川慶喜の【蟄居の間】がそうで、大政奉還の折に二ヶ月程謹慎していた部屋が当時のまま残っていて(葵の間ともいわれています)、予想以上に狭かったことを覚えています。 他にも、当時ナポレオンから寄贈された陣羽織や、謹慎中に描いた絵画等が保管されています。 また、徳川家代々の御廟にも参らせて頂きました。 四代家綱、五代綱吉、八代吉宗、十代家治、十一代家斉、十三代家定と歴代の将軍が眠っていますが、現座大河ドラマで放映中の篤姫の墓所も十三代家定公の隣にあります。 暑い夏の日に行ったのですが、門をくぐり、杉林の中に整然と並んだ石畳と、奥に佇む御廟は、その空間だけ涼しげで、外界とは別世界だったような不思議な記憶があります。
今も寛永寺根本中堂は、私たちに堂々たる佇まいを見せてくれますが、春の桜の時期になると、境内の桜がお堂に映え、それは見事なものです。 上野や谷中を散策する方々の足も、ほとんどの方の足が上野公園止まり、もしくは谷中霊園止まりで、ここまで足を伸ばす方も少ないようです。 おかげで、この寛永寺境内の桜は、祖父たちがそうしたであろう、ゆっくりと散策しながら桜を愛でる事ができ、都内でも私の大好きなスポットの一つでもあります。 また境内には江戸開府400年記念の「東叡山寛永寺の歴史」を綴った掲示もあり、ちょっとした寛永寺の歩みを見る事ができます。
このように長い歴史をもつ寛永寺ですが、現在は立派な史跡として、さまざまな事を私たちに語りかけてくれるようです。 |
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