昭和からの贈りもの 第2章 大正時代

 2-24.上野公園 いまむかし 2   ・ 


こうして火事や地震というさまざまな災害にあったり、戦災にもあい、更には売却されかかったりと、世の中の出来事を見続けてきた【大仏様】が右です。
(写真は下町風俗資料館より許可を得て複製したものです。)

寛永8年(1631年)に最初の大仏が越後村上城主の堀直寄によって建造されますが地震で倒壊し、1660年に木食浄雲(もくじきじょううん)という僧によって再建された青銅の【大仏様】と言われていますが、高さ6mの釈迦如来像は、とても穏やかな表情に見えます。

その後安政の大地震で頭部が落ちますが、修復されました。

そして大正12年を迎え、先の【大正12年.上野大佛の岳の下】の写真が撮られた5月後に発生した関東大震災で、再び【大仏様】は災難に遭い頭部が落ちてしまいます。

その後しばらくは胴体のみの【大仏様】となって野ざらしになっていました。

調べた資料の中にも、頭部が落ちたままになっている【大仏様】の写真を何点か見ましたが、【大仏様】の頭部が落ちる程の地震の凄まじさを改めて感じると同時に、首が落ちた【大仏様】ほど怖い物はないと思ってしまいます。

子供の頃の伯父にも、ちょっと《不気味な大仏様》の思い出があったようですが、ある意味では子供たちにとっては、格好の肝試しの場所だったのかも知れません。


ありし日の上野大仏/下町風俗資料館所蔵

昭和に入り『野ざらしのままでは・・・』と、寛永寺によって地震で落ちた頭部は引き取られて安置され、再建の日を待っていました。

しかし再建資金が集まらないまま、戦時下となる昭和18年に【金属回収令】が発令されると、胴体及び脚部は、軍によって回収されてしまい、【大仏様】はしばらく上野から姿を消してしまう事になりました。

但し、幸いだったのは、落ちた頭部のみが寛永寺に保管され続けたことでしょう。

昭和42年には【大仏様】があった丘に【パゴダ(仏塔)】が建てられ、関東大震災50回忌となった昭和47年に、元の小高い丘に、保管されてきた顔面部分がレリーフとして復活しました。

かつての【大仏様】は見ることはできませんが、当時の様子は、そのレリーフの下に掲示されていました。


現在の上野大仏レリーフ

現在の大仏様は、【合格祈願】の人たちが多く訪れる場所になっていました。

入り口にも【合格祈願】の、のぼりがたくさん立っており、大仏様の名もいつの間にか【合格大佛】と掲示されています。

これは、
『何度も何度も落ちては復活して、今や頭だけになった【大仏様】であれば、もう落ちる事はなかろう。』
との事からだそうです。


大仏の丘下ののぼり/平成19年3月撮影


右は、現在の上野公園内の大噴水で、噴水の奥にかろうじて見えるのが、現在の東京国立博物館ですが、ここは寛永寺の本坊があった場所でもあります。

現在の上野公園一帯および国立博物館がかつては寛永寺の寺社領で、最大事は更に2倍ほどだったと言うから、その規模は驚きです。


この写真右手には国立科学博物館が建ち、その先には上野駅があります。

また手前左手を進むと上野動物園があり、更に手前が上野大仏です。



かつて寛永寺根本中堂が建っていた上野公園大噴水

この門は寛永年間(1624-1644)に建立された【旧寛永寺本坊表門】で現在は寛永寺輪王殿の入り口門として建っています。

かつては上の噴水の写真の正面奥に建っており、寛永寺本坊の門として構えていました。
そして先の上野戦争で焼け残った数少ない史跡のひとつです。
(現在は重要文化財として保護されています)


太い柱で支えられた門には、菊の御紋が赤く彫られています。
更に門柱の周りを見渡しますと、上野戦争の際に出来たと思われる砲弾の跡なども何箇所か残っていました。

上野戦争の際は、激戦地だった黒門が破られると、彰義隊は一気に壊滅し、その後、根本中堂や本坊などに火が放たれ焼失していますが、門が本坊や根本中堂と離れていた事と、あくまでも単なる門だった為焼かれずに残ったのでしょうか?
また、砲弾の跡も少ないのは、既に彰義隊は壊滅状態だった為、砲弾が打ち込まれる事も少なかったのでしょうか?

焼け残ったこの門は、明治11年に帝国博物館(現東京国立博物館)が着工すると、その正門という当たらし役目を、その後60年近くに渡って担います。
この帝国博物館の門だった様子は、【昭和6年根岸小学校卒業】の中で見ることが出来ます。

関東大震災で帝国博物館も被害を受け、その後昭和12年に博物館が再建された事に伴い現在の場所に移転されました。

寛永寺本坊は寛永二年(1625)創建で、この表門も当時のものと言われています。

上野を訪れた際は、ちょっと足を伸ばして380年前の大きな門を見上げてみるのも良いのでは?と思います。


旧寛永寺本坊表門

門に残る砲弾の跡

そして右の地図は
  上・安政6年(1859)
  中・大正13年(1923)
  下・平成20年(2008)
の上野公園近辺の地図です。

地図でも判るように、かつてはこの大噴水の場所に、大きな根本中堂が建ち、そして奥の国立博物館があった所に、寛永寺の本坊があった場所です。

そして現在も残っている旧寛永寺本坊表門が建っていました。


安政8年の地図にも、根本中堂の絵が描かれていますが、現在の国立博物館の倍以上の大きさで描かれており、その大きさが伺われます。

今ではすっかり様子が変わっていますが、大仏殿のみが江戸時代から同じ場所にあるようです。


こうして新旧を比較をして見ますと、如何に昔の寛永寺が徳川幕府の庇護を受け大きく広大な敷地に建っていたか判ります。

安政の地図には黒門も描かれていますが、この寛永寺に旧幕府軍が立てこもり、黒門で上野戦争の火蓋が切られ、上野のお山一帯で激戦が交わされ、寛永寺は灰燼と化しました。


そして時が経つにつれて、寛永寺は移転を余儀なくされ、上野は新しく公園として整備されます。

その後近辺の道路が整備され、駅や線路が出来、上野では博覧会が開催されるようになります。

そして、動物園や博物館が出来、市電が廃止され、上野は次々に新しい顔が出来、私たちの知っている上野へと変わってきました。

安政6年上野地図

大正13年上野地図

平成20年上野地図

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