昭和からの贈りもの 第1章 明治35年〜明治末の記録

 1-8.明治41年・祖母十三歳・江崎写真館 1908   ・ 


 跡見女学校時代 江崎写真館撮影/明治41年


上の写真の台紙には、【大日本・東京浅草公園地 江崎】と
【Ezaki ASAKUSA PARK TOKYO,JAPAN】いう刻印が記されています。

また裏面には墨で【明治四十一年十月】という文字や【荒瀬やす子・十三才】、【跡見女學校】と書かれています。

真ん中に座っているのが祖母の少女時代のようですが、浅草公園地と言えば浅草奥山を指します。
更に江崎→写真→浅草といえば、明治時代に浅草奥山にあった【江崎写真館】の事のようです。

としますと、前頁の栃木県鹿沼の高等女学校を卒業した後に、上京して東京の跡見女学校に通っていた頃に浅草に来て撮影したものかもしれません。

そしてこの【江崎写真館】は、日本に本格的な商業写真を持ち込んだ江崎礼二氏の写真館のようです。


明治時代の初期に写真を撮影する方法と言えば、写真機の前で、三十分はそのままの姿勢を保たなければならなかった時代です。
もちろん動くものは撮影不可能とされていました。
であるからこそ、写真に対する考えも「写真を撮られると魂が抜かれる・・・」という思いもあったようです。

こうした当時の写真技術の中に、瞬間に撮影できる方法を持ち込んだのが、この写真を撮影した江崎氏であり、その頃は《早取写真》と言われたそうです。

また明治26年には、子供達1700人の顔写真をジオラマとし浅草十二階に展示したそうですが、この写真は日本初のコラージュ写真とされ、東京都現代美術館にも展示されています。

明治時代後半の浅草は東京一の繁華街と言われ、写真館も40軒程もあったそうですが、この【江崎写真館】はその《早取り写真》を取り入れたこともあって、浅草奥山の中でもトップクラスの写真館となり、また江崎礼二氏も、日本を代表する写真家と言われた方だそうです。

下が明治22年に起工した浅草奥山の江崎写真館ですが、場所は浅草寺裏手になり、現在の浅草病院近辺です。
そうすると祖母もここで撮影したのかもしれません。


明治時代の江崎写真館/テプコ浅草館蔵


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