昭和からの贈りもの 明治時代の出来事
明治時代の出来事 明治31年〜明治40年 1898-1907  

明治31年

日本で初めて自動車が走ったのがこの年で、フランスのメール・フェートンという自動車が、築地から上野をデモンストレーション走行しました。

この時は【石油動機車】と称されていましたが、この後その自動車は競売にかけられたものの、6000円の値に対し、5300円の入札で、結局買い手は付きませんでした。

その後、わが国初の国産自動車が作られるのは26年後となりますが、写真は大正終わりに試験走行をしている国産車第1号となるオートモ号です。(写真26)


先にエジソンによって発明された【蓄音機】ですが、日本で最初に販売されたのはこの年からで、銀座の天賞堂で33円と48円の値で販売されました。 


そして12月には、上野公園に【西郷隆盛銅像】が建てられます。
以来西郷隆盛像は観光名所として大勢の人々が訪れる場となっていきます。(写真27)


明治32年

大阪で鳥居商店が開業し、【ぶどう酒】の製造が開始されますが、これが現・サントリーの前身です。
また8月には日本麦酒が新橋に日本初の【ビアホール】を開店します。


カゴメの創業者である蟹江一太郎が軍を退役し、上官の進めもあって西洋野菜の栽培と共に、トマトの栽培を開始したのもこの年です。
当時はトマトの独特の匂いが市場や八百屋で嫌われ、全く置いてもらえない状況が続きますが、後に西洋ではソースとして使われていることが多い事をヒントに作ったのが、トマトケチャップとウスターソースです。


また森永西洋菓子製造所(現森永製菓)が洋菓子店を開業したものこの年です。

この年10月には浅草に水族館が開館します。
元々民間水族館第1号として明治18年に開館しましたが、当時の海水魚の飼育方法が確立していなかった事もあって1年で閉館となりましたが、ようやく技術も発達しての新しい水族館です。
当時は千葉県富津から海水を運び入れ、循環設備も整っていたようで、111種の魚が泳いでいたそうです。(写真28)


明治33年 

花、鉄道唱歌、おおさむこさむ、うらしまたろう、きんたろう

最近は携帯電話に押されて少なくなりつつある公衆電話ですが、初めて上野と新橋に公衆電話が設置されたのがこの年です。


今も《食の安全》が問われていますが、この頃にも、『贈り物としてもらった菓子にカビの生えたケースが多い為、菓子折に製造年月日を入れよ』との声が起こっています。



26.国産車第1号のオートモ号試験走行・国立科学博物館より

27.大正時代の西郷隆盛像・絵葉書

28.浅草公園水族館・テプコ浅草館蔵

明治34年 

お正月、花咲爺、荒城の月、箱根八里、兎と亀、鳩ぽっぽ

【肉じゃが】が登場したのがこの年です。
これは海軍の舞鶴鎮守台初代長官でもあった東郷平八郎が、イギリス留学中に食べたじゃがいもと肉のシチューを懐かしがって、部下に肉とジャガイモの料理を作るように命じたのが初めと言われています。


そして最近は見かけなくなりましたが【赤い郵便ポスト】が初めて登場したのもこの頃で、従来は四角い木製だったものが、日本橋に設置されたのは鉄製の円形の赤い郵便柱函です。
この時は試用として設置されましたが、正式に登場したのはその7年後のことで、その後全国各地に設置されていきます。す。


『子供たちの唱歌なのに、難しい文語が使われては楽しく歌えないのでは?』という疑問から、初めて《話し言葉》で作られた唱歌として、【鳩ぽっぽ】が発表されます。(東くめ作詞、滝廉太郎作曲)

これは、東くめが、浅草浅草寺の鳩と子供たちの様子を見て作詞されたと言われており、浅草寺境内には【鳩ポッポの歌碑】があります。(写真28)
詳しくはホームページ内【童謡のおはなし】をご覧下さい。


28.浅草寺境内にある鳩ポッポの歌碑

明治35年

浅草署が管内の劇場に備え付けの【ポンプ】の総点検を厳命します。

右は当時の火消したちが使っていたと思われる防火用の木製の【ポンプ】です。
が、火を消すことよりも、火消しの人たちに水を掛けて火の粉から身を守る道具とも言われており、裏を見ますと明治24年新調との墨描きも見えます。(写真29)

そして下は江戸から明治時代にかけ、火消しの人たちが着用していた【刺し子半纏】で、柄は川中島の合戦の図です。
こうした火消しの人たちは、常に死と隣り合わせということもあり、威勢のいい柄の半纏を用いていたそうです。(写真30)


湘南の足として活躍している【江ノ島電気鉄道】が開業したのもこの年です。


他にも蚊取り線香が今のような渦巻き型となったり、大衆薬の【征露丸】が【大鵬薬品】より販売されました。


明治36年

今ではごく普通に目にするバナナですが、台湾バナナの輸入が開始されたのがこの年です。

既に織田信長の時代にバナナが登場していたようですが、本格的な輸入としてはこの時からで、当時は輸入量も少なくとても高価な果物だったようです。

そういえば子供の頃、母が『昔はバナナはいつも家にある果物ではなかったのよー』と言っていたのを思い出します。


東京に初めて路面電車が走ったのもこの年です。
既に馬車鉄道として使われていたレールを用いて、品川〜新橋間に登場したのは、木造車両の定員は40人、所要時間は1時間半という長い時間がかかったそうです。


都会のオアシスとして知られる【日比谷公園】ですが、この年6月に初の洋式公園として開園しました。

元々は日比谷潟と言われた入り江だった部分を干拓し、幕末までは諸藩の藩邸がありました。
明治に入って日比谷練平場となり、その後官公庁を日比谷に移す案が出たものの、元々入り江だった事から地盤が軟らかく、洋式建築には大規模な基礎工事が必要な事から、公園となったと言われています。

29.明治24年当時の消防用ポンプ


30..江戸〜明治期の火消し用刺し子半纏

明治37年

この年2月に日露戦争が勃発しますが、この後に大流行した女性の髪形に【二百三高地髷】があります。

大正時代の項目にも、この【二百三高地髷】がありますが、ひさしが大きく張り出した独特の髷です。(写真31)

31.大正時代の二百三高地髷

またこの年に日本初のデパートとなる【三越呉服店】が開店します。

延宝元年(1673)に創業した越後屋と、営業権を譲り受けた三井呉服店名を取って【株式会社三越呉服店】とし、欧米のデパートにならって、《デパートメントストア宣言》をして開業しますが、これが日本のデパートの始まりと言われています。

この頃の店舗は、二階建てで上下階合わせると760畳ほどもあり、客は正面入口で下足を脱ぎ、履物をあずけて畳と絨毯の上を歩いて買い物する造りで、この後店内に食堂を開設したり、輸入化粧品や、靴、洋傘など扱い品目も増えていきます。
(写真32)


32.昭和初期の三越百貨店・絵葉書

明治38年

前年勃発した日露戦争も1月は終わりを告げ、この時の旅順陥落を記念して設置されたのが、【勝鬨の渡し】です。
現在は【勝鬨橋】として橋が架かっていますが、当時は渡し舟で往来していたようです。


森下博薬房(現森下仁丹)が【仁丹】を販売したのがこの年ですが、当時流行していたコレラの予防効果と、徹底した宣伝手法も重なって、以降ベストセラーの薬になっていきます。

宣伝で有名なひとつが、大正時代になって建てられた【仁丹塔】で後に掲載する予定の上野の夜景にも輝いています。
ただでさえ大きな看板塔が、夜になると文字が光るという効果抜群の宣伝塔で、ここ以外にも大阪や浅草にも塔が建ち、特に浅草の仁丹塔は昭和61年に解体されるまで、浅草のシンボルとして親しまれていました。


また、夏目漱石が【ホトトギス】にて【吾輩は猫である】を発表したのもこの年です。

写真33は 現在も人気の台東区三ノ輪の桜鍋専門店【中江】です。
創業は明治38年ですが、その頃は馬肉専門の鍋屋が流行り、東京市内だけでも300軒を越す程の人気で、この吉原近辺にも20軒は創業していたそうですが現在三ノ輪ではここ1軒となりました。

そしてこの中江のお隣は、明治22年創業の天ぷら屋【土手の伊勢屋】です。

こちらもお昼前からお客さんが並ぶ人気のお店ですが、この一角のみタイムスリップしたような町並みが広がります。(写真34)
因みにこの近くには山谷堀があり、それらの堤防があったことから、この前の通りは【土手通り】とも言われ、そこから【土手の・・・】という名がついています。

33.明治38年創業の桜鍋専門店 中江

34.明治22年創業のてんぷら屋 土手の伊勢屋

前述の日比谷公園に、我が国初の【野外音楽堂】が出来たのが、この年8月です。

八角形の近代的な屋根が特徴で、西洋音楽の演奏がなされ、【日比谷奏楽】とも言われていました。

現在も日比谷公園内に建つ【音楽堂】は3代目ですが、右の写真は初代の【音楽堂】です。
明治末から大正時代の絵葉書と思われますが、音楽堂の周りには、着物姿から洋装の方が何重にも囲んで、演奏会を見聞きしているようです。

中にはうるさくて耳を塞いでいるような姿も見えますが、相当の人気だった事がわかります。(写真35)

35.日比谷公園音楽堂・絵葉書

明治40年

上野公園にて【第六回東京勧業博覧会】が開催されますが、この時は先に登場している蓄音機が公開されたり、宮田自転車が最新式自転車を展示し金賞を受賞します。


また娯楽では室内温水プールや東京初の【ウォーターシュート】(写真36)などが人気となりますが、それ以上の目玉は【観覧車】でした。

今でも【観覧車】は人気の乗り物ですが、この時の観覧車は【空中観覧車】【空中回転車】などと呼ばれ、当時の解説では、
《人が乗れる箱が18個吊るし、水車のように回り、空中三十尺程の高さに上がる乗り物で、乗車料二十銭、学生小児は十銭》
となっていますが、この時はあまりの高さに顔面蒼白になった人もいたようです。(写真37)

尚、博覧会が終了してからは、この空中回転車しばらくは浅草六区の南に移されたそうです。


この他この年の出来事としては、警視庁が東京市内の自動車制限速度を時速8マイル(約13q)に制定。


8月には山手線に電車が導入され、また女性の水着(シマウマ)が登場したりします。


36.第6回東京勧業博覧会でのウォーターシュート・絵葉書

37.東京勧業博覧会観覧車・絵葉書

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