昭和からの贈りもの 明治時代の出来事
明治時代の出来事 明治21年〜明治30年 1888-1897  
明治20年代に入って【野球】と言う言葉が登場しますが、最初にこの【野球】を文字として表したのは、俳人の正岡子規です。

明治23年には自分の雅号を【野球(のぼーる)】と称していた事もありますし、また《バッター》《ランナー》などの英語を《打者》《走者》と訳したもの正岡子規です。

また明治30年には専門書【野球】の《魔球》の項に初めてドロップが紹介されますが、ドロップは明治20年代に、第一高等中学校野球部のキャッチャー時代に、投手に教えた【インドロップ】が初めてと言われます。

正岡子規は、明治30年に俳句雑誌【ほととぎす】を創刊しますが、実は野球人としても名を残しており、平成14年には野球殿堂入りも果たしていますし、上野公園の野球場は、別名【正岡子規野球場】とも言います。(写真15、16)


明治21年

この年日本で初の本格的喫茶店が【可否茶館】と言う名で下谷黒門に登場しました。

店内には玉突き台やトランプ、内外の新聞雑誌等を置き、更衣室や200坪の庭もあり、コーヒー1銭5厘、牛乳2銭という豪華な喫茶店だったようで、文士などが訪れていたようです。
が、もり蕎麦が1銭程度の頃で、しかも苦いものが美味しいとされていない時代だけに、さほどり人気にはならず、数年で閉店になります。
喫茶店が再びブームとなって脚光を浴びるのは、その後30年以上経てからです。


またこの年の土日にかけて鎌倉、江ノ島、箱根方面へ遊覧客や避暑客が押し寄せるようになり、この頃から週末のレクリエーションや避暑が広がってゆきます。


夏と言えば、現在も懐かしい飲み物として売られている【ラムネ】が登場したのもこの年です。

当時は【玉ラムネ】と呼ばれ、大阪酒造組合が日本橋に支店を出店して販売したのが、瓶の中にガラス玉が入った玉瓶で、その斬新さからとても人気だったようです。

そしてこの後数年してブームとなったのが、この玉を取り出して遊ぶビー球遊びです


皇居及び二重橋が完成し、以降【宮城】と称する事を宮内庁が告示したのもこの年です。

15.上野公園内正岡子規記念球場


16.正岡子規記念球場記念碑

明治23年

浅草に高さ66mの展望塔【凌雲閣(浅草十二階)】が完成します。

塔の中には日本初のエレベーター(昇降機)も設置され、東京電灯はエレベーター用に電気を供給しましが、これが我が国で初の電動力利用ともなります。(写真17)


エジソンによって発明された【蓄音機】が天皇陛下に献上され、この後浅草の奥山閣でも公開され、蓄音機を聞かせる露天商も登場します。


私たちの日常の足ともなっている自転車の原型とも言える、国産初の安全型自転車が作られたのもこの年です。

宮田製銃所(現・ミヤタ自転車)は江戸時代から続く鉄砲鍛冶で、輸入された自転車の修理を依頼されたのがきっかけで、銃の鉄パイプの技術を利用して自転車の製造をすることになりますが、この時製造した自転車は、前後のタイヤ径が同じで、駆動はチェーンを利用した現在の自転車の原型です。

右の(写真18)は昭和13年前後に私の父が自転車に乗っている様子ですが、見るからに堅固な自転車です。


上野で【第3回内国勧業博覧会】が開催され、この時日本初となる電車が登場します。
以降急速に電車が発展してゆく事となります。


夏に欠かせない【蚊取り線香】が、初めて登場したのも明治23年で、日本除虫菊(現・金鳥)の創始者・上山英一郎の手によります。


日本橋のしゃも鍋屋玉ひでが【親子丼】を考案したのもこの年で、現在も親子丼の名店として連日賑わっています。

当初はこうした丼ものは、汁かけ飯として軽んじられていた為、出前用として売り出されていたようですが、兜町や日本橋魚河岸の人たちには喜ばれていたそうです。(写真19)


【帝国ホテル】がオープンしたのが12月で、3階建て60室。1泊12円で最下等の部屋でも5円の宿泊料でした。


そして12月16日は電話創業の日ですが明治23年のこの日に、日本で初めて東京と横浜に電話が開通し、電話交換業務を開始したことによります。


現在上野公園内に建つ【旧東京音楽大学奏楽堂】は、国の重要文化財に指定されていますが、日本最古の木造音楽ホールとして、この年に建築されました。

現在は資料館として一般に公開されていますが、【小学校唱歌 初偏】など、童謡のルーツともいえる資料なども展示されています。(写真20)


17.浅草稜雲閣・古い絵葉書より

18.昭和13年頃の自転車

19.明治23年創業の玉ひでの【親子丼】

20.旧東京音楽大学奏楽堂

明治24年

現在も神田駿河台に建つ【大聖堂ニコライ堂】の竣工はこの年です。

右は明治43年頃に描かれたニコライ堂ですが、現在と少し様子が違うのは、関東大震災で一部が倒壊し、修復された際に、耐震の問題などから塔が低くされました。(写真21)


9月には上野〜青森間の鉄道が開通しすますが、一日一往復で片道は何と26時間もかかったそうです。
ただ、これにより青森のりんごが東京でも販売されることになります。


明治26年 一月一日

先に唱歌集に掲載された《君が代》が、祝日大祭日の唱歌に正式発布されます。

この他にもこの年発表の《一月一日》や《紀元節》など8曲が公示されました。

21.明治末に描かれたニコライ堂

明治27年

夏目漱石の【坊ちゃん】でも登場する愛媛県松山の【道後温泉本館】が完成したのがこの年です。

現在も当時の姿を残した立派な佇まいで、観光客はもちろん、地元の方々を迎えてくれますが、温泉の歴史は三千年前とも言われる名湯です。

右は昭和初期の【道後温泉本館】の様子(写真22)と、現在(写真23)ですが、手前角の小さな建物が変わっているものの、他の屋根などは同じように見えます。


そしてこの年の大きな出来事として8月には日清戦争が勃発します。
手元にこの時の【九連城】の戦いの様子を描いた版画がありますが、当時はこうして戦況などを伝えていたのでしょう。(写真24)


明治28年

京都の京都電気鉄道で日本で初の電車が営業開始します。

英国製16人乗りの電車で、伏見町油掛〜下京区東洞院塩小路間の約6.4qを最高時速約10qで走りました。

当時は電車の前に告知人という人が

『あぶのうおまっせッ、のいとくれやっしゃー』
と言いながら走っていたそうで、俗に言う【先走り】ですが、通行人より告知人の方が電車に轢かれる事故が多発し、後にこの制度は廃止されました。


東芝が我が国初の【扇風機】を販売したのもこの年ですが、この時の【扇風機】は羽が回ると真ん中の白熱電球が灯るというもので、【扇風機】とは言わずに【エジソン形電子扇】という名でした。


冬のスポーツとして人気の【スキー】ですが、松川俊胤大尉が欧州からスキー道具一式を持ち帰って始めて国内に紹介したのがこの年と言われています。


明治29年 夏は来ぬ

ギリシャのアテネで【第一回オリンピック】が開催されます。

またこの年には神田の小林富次郎商店(現・ライオン)が【獅子印はみがきライオン】を販売しますが、当時は歯磨きには、鹿印、象印、鷹印などの動物名が出回っていたため、ライオンという名がついたそうです。


12月1日は映画の日として知られていますが、明治29年のこの日に、神戸にてエジソンが発明したキネトスコープが上映されたことによります。


翌年明治30年には、浅草に【日本シネマトグラフ館(動く写真)】が登場し、同じ年には小西本店がイギリスから活動写真撮影機を初めて輸入し、店員の浅野四郎が我が国最初の映画【日本橋の馬車鉄道】を撮影し、活動写真の時代が到来します。

22.昭和初期の道後温泉本館

23.現在の道後温泉

24.日露戦争・九連城略取の版画

この頃に東京神田に【ミルクホール】が開業し、その後大正時代後半まで学生街を中心に各地に広がっていきます。

最初この【ミルクホール】は喫茶店と似たようなお店と思っていましたが、そうではなく、牛乳売捌所が始めた、れっきとした牛乳を飲むお店だったようです。

大正時代の資料を見ますと、純良牛乳四銭、卵入り牛乳八銭、氷牛乳五銭、ミルクセーキ十銭、ジャム・バター付パン五銭。となっており、学生や独身の勤め人、若い店員が主な客だったそうですが、夏目漱石の明治四十年の作品【野分】の文中にも、この【ミルクホール】の様子が出てきます。

もちろん現在は【ミルクホール】はありませんが、神田に【ミルクホール】という暖簾を出しているラーメン屋さんがあります。

何でもかつて【ミルクホール】だったことからこの名が付いているそうですが、老舗のラーメン店としても有名です。(写真25)


また、ミルクではありませんが、浅草【舟和】の創業者、小林和助がみつ豆を考案したのもこの頃です。


25.ミルクホールという暖簾の下がるラーメン店

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