明治時代の出来事 明治41年〜明治45年 1908-1912 ← ・ →(大正時代へ) | |||
明治41年 1908 明治後半になるとさまざまな新商品が登場しますが、画期的な代表と言えば、【味の素】の発明及び販売です。 池田菊苗が、昆布のうま味の工業的分離に成功したことによりますが、この【味の素】の名は、家族会議にて決定しました。 ただ発売当初は《理想的調味料》《食糧界の大革新》等と宣伝をしたものの、庶民に浸透しなかったようです。 【シューマイの崎陽軒】が横浜駅構内で開業したのもこの年です。 明治42年 1909 野中の薔薇、ローレライ 【リボンシトロン】が販売されたのがこの年で、当時は【シトロン】という名でした。 そう言えば大正時代の飲食の領収書の中にもシトロンという名が出ていました。(写真38) 東京の主要幹線の山手線が運転を開始したのが12月です。 この頃はまだ神田駅や有楽町駅などはなく、現在のような環状運行ではなく、のノ字運行でした。 明治43年 1910 ふじの山、虫のこえ、我は海の子、春が来た、月 すでにドイツではツェッペリンの飛行船が運航していましたが、日本で初となる飛行船が運行しました。 また、代々木練兵場で飛行機の訓練も開始され、この年暮れに徳川好敏大尉が複葉飛行機で高度70mの飛行に成功し、これがわが国初の飛行と判定されます。 今では当たり前のラッシュアワーですが、この頃から東京の市電のラッシュアワーが始まっています。 |
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明治44年 1911 紅葉、案山子、かたつむり、雪、鳩、日の丸の旗 日本の道路の基点は日本橋ですが、この日本橋が架けられたのは1604年と言われています。 その日本橋が現在の石の橋になったのが、この年11月の事です。 またこの橋に掲げられた【日本橋】の文字は、徳川家最後の将軍だった徳川慶喜公の筆によるものと言われています。(写真39) 東京のカフェ第一号が開店したのが3月の事で、京橋にカフェ【プランタン】が開店します。 フランスのカフェをモデルに、当時の美術家や文学者の社交の場として設けられた為、敷居が高いカフェだったようですが、給仕には女給(ウエイトレス)を採用をした事からも人気であったようです。 同じ3月に丸の内に開場したのが、日本初の洋式劇場である【帝国劇場】です。 後年三越とタイアップして発表した 『今日は帝劇明日は三越』 のキャッチフレーズは、この時代を象徴する標語の一つと言われています。(写真40) このルネッサンス様式の帝国劇場に対して建てられたのが、2代目となる歌舞伎座です。 純和風の建築で、関東大震災に焼失以降も、この時の様式を継承しています。(写真41) |
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明治45年 1912 茶摘、汽車、村祭 資料を見ていたら、1月31日 甲武線(中央線)中野〜昌平橋で、【婦人専用電車】が登場という記載がありました。 中野〜昌平橋間で朝夕の混雑時に実施されたようですが、この沿線には、お茶の水師範付属女学校、学習院女学部、蓋葉女学校など多くの女学校があり、男子学生たちは、女学生で満員になった電車を【花電車】と呼んでいた程で、当時の[風紀上よろしくない]という事で実施されたようです。 現在では当たり前の事になりつつある[女性専用車両]が100年近く前にも実施されていたとは驚きです。 3月には日本交通公社の前進である【ジャパン・ツーリスト・ビューロー】が創立されます。 と言っても、国内旅行というより、主に外国人旅行客向けの案内が中心でした。 映画でも有名な為、これ程古い出来事とは思いませんでしたが、【タイタニック号】が処女航海で沈没したのが4月の事です。 写真42は沈没する数日前の船体検査中の様子を撮ったタイタニック号です。(写真42) 大阪のシンボルと言える【通天閣】が完成したのが7月です。 第五回内国勧業博覧会(明治36年)の会場跡地に、パリのエッフェル塔と凱旋門をモデルにして建てられた塔で、高さ75mは、当時東洋一の高さを誇り、新世界ルナパークと一緒に開園しました。(写真43) 残念ながら、戦時中の火災で塔は全焼し、鋼材も金属回収令によって供出され初代の【通天閣】は姿を消しますが、現在の【通天閣】は、二代目でとして昭和31年に建てられたものです。 また有楽町で日本初のタクシー会社が開業します。 T型フォード6台で営業が始まり、初乗りは1マイル(1.6km)60銭でした。 そして明治45年7月30日に、明治天皇が崩御され、時代は大正へと移って行きます。 |
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