1-4.明治39年・富士紡績小山工場   ・ 


明治39年 富士紡績小山工場

こちらの写真も明治時代に撮影されたもので、大きな台紙に貼られた立派な写真です。
台紙の裏面には【明治39年9月14日撮影】と墨で撮影日が書かれています。
伯父に聞くと
「あーこれは富士紡の小山工場だな!」
「僕も親父や弟と一緒に工場見学に行った事があったけれど、とにかく広くて大きな工場であの頃としては凄い工場だったな。」
との事でしたが、確かに左側に見える煙突にも【富士紡績株式会社工場】の文字が見えます。
また煙突の周りに工場と思われる建物が並んでいますが、屋根も広くかなり規模が大きく、近代的な工場だった事がわかります。
伯父が訪ねたのはこの写真が撮られてから20年程後のことになりますので、今から100年以上も前に、こうした大規模な工場が建てられていたとは驚きです。
この富士紡績(現富士紡ホールディングス)が操業を始めたのは、この写真が撮影された8年前の明治31年9月です。
その後発展を続け、大正11年には従業員数7900人という規模まで大成長する事になります。
祖父が日本橋の斉藤弁之助商店という綿糸問屋にいた事から、こうした写真が祖父の手元にあったと思われますが、この当時の写真は相当高価なものだったようです。


写真左手に高く立つのは煙突です。
黒い煙が出ているのが判りますが、煙突には【富士紡績株式会社工場】の文字が見えます。
煙突の右側には三角屋根が連なっていますが、こちらは工場でしょうか?


写真の手前左側には川や滝が見えますが、鮎沢川と思われます。
この工場は川の水を水力発電として利用した、当時としては画期的な工場としても知られており、この川の水を電気に変えて、工場を操業していたようです。
確かに写真奥には水力発電と思われる構造が見えます。


写真中央には橋が架かっており、隣にも橋を建設中のようですが、この橋は国の有形文化財にもなっている、【森村橋】でしょうか?
資料によると、当初は汽車の単線が敷かれていたとの事ですが、写真の橋にも、確かに二本のレールが写っています。
が、詳しく調べたら、森村橋とは少し形状が違うようですし、森村橋は明治39年11月開通と言う事がわかりましたので、写真は開通の2ヶ月前と言う事になります。
としますと、建設中の橋が森村橋のようです。
写真中ほど右手の横長の建物には、窓がたくさんあり、洗濯物らしきものが干されていますので、ここは今で言う社員寮かもしれません。
遠くに富士山を望むその工場は、百年以上も前とは思えない程近代的で、山裾に見える茅葺の屋根だけが、かろうじて明治の面影をのこしています。


《追記・2010.10》
先日、写真の富士紡績小山工場で実際に働いていたと言う方よりご連絡を頂戴し、この工場について貴重なお話を伺いましたので追記します。
その方によると、煙突の手前の細長い建物は第1工場で、煙突の右奥が第2工場。
右側の黒い屋根の3棟は寄宿舎と大食堂で、その手前の白い壁の建物は工場内の外来病院とのことです。


第1工場

第2工場

寄宿舎と大食堂

白い壁の家屋が工場内外来病院

事務所

川前住宅

また煙突右横は連絡を頂いた方が働いていた事務所で、写真右手前は従業員川前社宅と言う事が判りました。


写真中央の川は鮎沢川で、川に架かる橋は森村橋に間違いないようです。
また改めて写真を見ると、森村橋の近辺や川の土手には工事の作業員らしき姿も数多く見ることができます。

因みに、この写真より後の関東大震災では工場や建物も大きな被害を受けたそうです。
調べましたら小山町では183名の犠牲者が出ますが、そのうち123名が富士紡績小山工場での犠牲のようです。
特に当時の工場は耐火の為レンガ造りでしたが、このレンガの倒壊に及びその後に発生した火災によって犠牲となった方々が多かったようです。
震災後は工場や寄宿舎なども再建され、寄宿舎も写真右方向に数棟増えていったそうです。
また橋を渡ったところは芝生広場となったようで、写真の風景を覚えていらっしゃる方も少なくなっているようです。



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