5-11.昭和10年頃・京成電鉄寛永寺坂駅 ← ・ → |
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写真は昭和10年頃に撮影された京成電鉄【寛永寺坂駅】です。 現在は廃駅となっておりますが、この駅は【京成上野駅】→【博物館動物園駅】→【寛永寺坂駅】→【日暮里駅】〜【成田駅】と上野駅から三番目の駅として、昭和8年12月10日に開業します。 戦時中の昭和18年に、地下トンネルが運輸省の疎開先として接収された為、駅は一時閉鎖されます。 その後、戦後になって再開したものの一年も経たずには廃駅となった駅です。 そのような事から実際に正常営業していたのは、開業から10年だけで、営業の様子が写っている珍しい写真とも言えるかもしれません。
廃駅となってから60年を過ぎた寛永寺坂駅ですが、駅舎は現在も残っています。 上がその旧寛永寺坂駅ですが、ひさしこそ無くなっているものの、駅舎の形や窓など昔と一緒です。 ただシャッターなどは開くことはなく、管理は京成電鉄のままのようで、駅前広場は駐車場となっています。
この写真はネガの状態で保存されており、上のように駅舎内が黒くなっており、当初は建物以外は何が写っているか判りませんでしたが、写真の整理の途中にPCで補正した事で、暗い部分に祖祖父や伯父兄弟の姿が出てきたものです。 駅の柱には帽子を被った祖祖父が写り、改札の中には学生服を着た伯父の弟たちが立っており、向かい合って話をしているのは祖母かもしれません。 兄弟たちの制服や背格好からしますと四男の伯父と五男の父のようで、昭和10年頃に撮ったものと思われます。 伯父に聞きますと、 「家から近かったので、成田方面は便利だったよ…。でも上野方面は歩いていたから、いつも使う駅ではなかったなぁ…。」 「駅前は一時期モータープールとなったなぁ・・・そういえばトロリーバスの停留所にもなっていたよ・・・。」 との事で、廃駅となった以降は、駅前の広場は駐車場として使用され、昭和27年頃に東京で最初のトロリーバスが開通すると、トロリーバスの停留所として使われていたそうです。 確かに、私の小さいときの記憶にも、伯父の家の近くを通る長いアンテナのバスが走っていたシーンがあります。 その後トロリーバスが廃止されると、また駐車場として使われ現在に至っています。 |
古い写真を拡大してみますと、まず右側にはバイクのようなオート三輪らしき姿も見えます。 昭和6年にはオート三輪ツバサ号やマツダオート三輪も発売開始され、こうしたようなスタイルの三輪車がよく走っていた時代です。 また《京成電車のりば》の看板の下にある丸いモノは郵便ポストのようです。 駅舎の向こうには三角屋根の家が見えますが、こちらは現在も同じ屋根のまま、同じ場所に建っています。 現在は【おせん】というおでん屋さんになっていますが、この【おせん】については【昭和6年 言問通り いまむかし 1】に紹介しております。 駅舎前を拡大すると、看板には《成田山》と読める文字が見えます。 この京成線は東京と成田山新勝寺を結ぶ鉄道として、文字通り東京の《京》と成田の《成》を冠して明治42年に創立しました。 大正時代や昭和初期の鉄道は有名な神社仏閣と都市を結ぶようにして開業してきた事と同様に、京成線も940年開山の成田山新山寺と東京を結ぶ事を目的だった事が判ります。 尚、当初は東京一の繁華街であった浅草と成田を結ぶ構想でしたが、他社路線との兼ね合いなどで上野駅へ変更されました。 大正元年には東京・押上〜江戸川間、曲金(現高砂)〜柴又間が開通し、その後既存の帝釈人車鉄道(金町〜帝釈天)を買収し、徐々に路線を延伸しながら押上と成田花咲町(仮駅)が開通したのが大正15年です。 この時京成電鉄では当時成田の町中を走っていた路面電車である成田電気軌道を買収し、電車を新勝寺門前まで走らせて、省線(現JR)に対して自社を有利にする目論見を持っていた為、まずは仮駅で開業しました。 しかし、成田の門前町からの猛反対に遭い新勝寺門前への乗り入れは断念しました。 それでも省線成田駅より少しでも新勝寺に近い位置へと考え、線路を300m延ばし、現在の京成成田駅まで通じたのが昭和5年で、その後念願叶って上野と成田が結ばれたのが昭和8年12月10日です。 この上野駅まで開通した時に、写真の【寛永寺坂駅】が開業した事になりますが、伯父の家からは目と鼻の先に駅が出来たことになります。[一部 I 氏提供情報より抜粋] またこちらは当時の京成上野線開通の案内ですが、上野公園駅、博物館動物園駅、寛永寺坂駅が新たに開業したことが判ります。 |
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もっとも、上野駅までは歩いて行ける距離で、日暮里駅も鶯谷駅も近いし、何よりも市電が発達していたので、常に使う駅ではなかったそうです。 それでも成田山へは1本で行けるようにはなったようです。 この駅名の【寛永寺坂】は、この駅から200m程先に【寛永寺坂】という坂がある事からと思われます。 またこの駅前一帯は、江戸時代は寛永寺の広大な寺社領で、現在もこの地のすぐ前に【寛永寺】があり古い根本中堂もあります。 尚、寛永寺坂については【昭和6年頃・諏訪神社大祭・言問通り】に、寛永寺については【大正時代 上野公園 いまむかし 1】や【昭和5年・寛永寺】等に別途記載しています。 因みに、この旧寛永寺坂駅の一角には国旗掲揚の土台が当時のまま残っています。 かつては、ここに日の丸の旗が掲げられていたそうで、土台にも【国威宣揚】と記されています。 駅舎廃止の時に、建物を壊さないという約束があったそうで、その為か片隅にポツンと建っていました。 |
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