5-10.日本橋小舟町 ← ・ → |
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日本橋小舟町は、かつては祖父の努めていた綿糸問屋や回船問屋を始め、団扇問屋や鰹節問屋等がひしめく問屋街でしたが、今や大正、昭和初期の街並みとは劇変しており、おそらく都内でも変化が大きい町のひとつとも言えると思います。 小舟町交差点の先には首都高速道路が架かり、かつて魚河岸が並んでいたという日本橋川は、今や高いコンクリートの壁で囲まれています。 この川に注ぐように流れていた西と東の堀留川は全て埋め立てられ、舟人が行き交ったというこの川も、いまや黒くにごり、見る人も居ない程の川になっていました。 そして問屋街は高いビル群に変わり、当時から商いをしている店舗数も数える程となり、かつての問屋街の面影は全くと言って良いほど無くなっていました。 |
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そんな中でも、古くから商いを続けている商店やお店が何軒かありました。 まずは、小舟町交差点から程近い場所にあるのが、三百年の歴史を今に伝えるという、楊枝のお店【さるや】です。 伯父にとっても【さるや】は古くから馴染みのお店のようで、現在も愛用しています。 この【さるや】に行って参りましたが、お店の外見は、綺麗なビルになっているものの、中に足を踏み入れると、そこは昔の商店を思わせるような感じで、大旦那さんや番頭さんが店内を仕切っているという雰囲気が現れていました。 店内には、古い楊枝の数々が展示され、また楊枝に関する浮世絵や資料などもあり、ちょっとした楊枝の歴史がうかがわれ、こうした手作りの楊枝は単なる爪楊枝の粋を超え、日本の伝統芸術とも思われるものでした。 右下は現在も販売している箱入りの楊枝です。 木箱には【金千両】と手描きされ、中には太めの楊枝が入っています。 この他にも大きさや文字の柄など異なるものもありますが、上野の下町風俗資料館にも、明治時代に作られたという、この【金千両】の楊枝が展示されていました。 その《金千両》の文字は今も昔も同じでした。 |
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かつて東堀留川が流れていた前の通りは、明治・大正・昭和初期と「堀江町」という町名で、祖父が番頭として勤めていた【斉藤弁之助商店】はこの堀江町二丁目にありました。
小舟町交差点近くのこの通りには、今やホテルやビルが立ち並んで居ますが、その中で、まさにひっそりと佇んでいる感じの古い和菓子屋さんが【清寿軒】で、創業は140年前の江戸末期の文久元年です。 |
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「あ〜清寿軒の大福は美味しくてな〜。親父も何かお祭りやお祝い事があると、大福をよく買っていたな〜。硬くなっても焼くと香ばしくて美味しくてな〜」 という、伯父にとっても思い出のお店の一つのようです。 先日も久々に伯父と一緒に小舟町に行き、清寿軒を訪ねてきましたが、お目当ての大福は戦前まで作っていたものの現在は作ってはいないとの事でした。 でも今はどら焼きが有名なお店となり、大福帳と大きく描かれた箱に入ったどら焼きは、甘すぎずほどよい餡で、どら焼きが有名というのもうなずけるお味でした。 またどら焼き以外にもお赤飯なども作っており、昼時ともなると、近くのOLさんやサラリーマンの方々が、お赤飯ランチを食べにやってくるという、ランチでも密かな人気のお店にもなっているようです。 清寿軒を過ぎ、旧堀江町を進むと、かつて【いせ辰】という浮世絵や千代紙の版元があった場所になります。 この【いせ辰】は、江戸の有名な版元であった伊勢屋惣右衛門に暖簾分けをしてもらい、団扇問屋街でもあったこの地に店を構えたのが、こちらも江戸末期の140年前です。 昭和の戦時中に、現在の谷中に移転しましたが、江戸時代から代々続く千代紙等現在も販売しており、また谷中、根津、千駄木を散策する方々にとって、格好のお店のようです。 古い写真と一緒に何枚か千代紙も出てきましたが、当時祖母は千代紙でよく人形を作っておりましたので、【いせ辰】さんで購入した千代紙でしょうか。 因みに、かのゴッホは江戸の浮世絵に多大なる影響を受けたといわれていますが、ゴッホの作品の中に、【いせ辰】が海外向けに作成した図柄が掲載されているとも言われています。 |
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元の東堀留川を埋め立てて出来た堀留児童公園は、大祭の御仮屋が建てられる場所という事は前にも述べましたが、この広い公園の地下には、万が一の震災に備え《震災対策用応急給水槽》なるものがあります。 万が一の災害時の飲料水として、そして火災の際の防火水として蓄えられています。 最初は、何故都心の一等地にこのような広い公園が?と思っていましたが、震災によって埋め立てられた場所が、現在は逆に震災に備えた公園になっていました。 元々川だった堀留児童公園の近くには、以前は【富士紡績】がありました。 【明治39年・富士紡績小山工場】にも富士紡績小山工場の明治時代の写真がありますが、【斉藤弁之助商店】からは目と鼻の先で、富士紡績とは古くからのお付き合いがあり、祖父はそうした方々とのお付き合いが多かったようです。 因みに現在富士紡績があるのは、ここより近い人形町です。 |
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かつて蔵がたくさん建ち並んでいた問屋街も殆どビル群に変り、当時の面影は少ないものの、何軒か繊維関係や呉服関係と思われるお店がありました。 小舟町交差点には【日本繊維輸入組合】の大きなビルが建っていました。 今や国産よりも輸入が多くなっている繊維ですが、昭和の初期の頃は、日本の綿糸関係の輸出が世界一位だったようで、それくらい品質がよく扱いも多かったという事ですね。 【東洋紡ミシン糸】は元々大阪の東洋紡関連の店舗で、ミシン糸を扱っています。 【松久庵】は呉服店のようですが、近くの【丸久商店】も新江戸染めとして古くからのお店です。
また浴衣のお店として有名なのが【笠仙】です。 江戸時代の業を受け継ぐ浴衣専門店で、創業は天保年間ですので、今から160年以上前です。 戦後一時期浅草にお店を構えましたが、その後昔の小舟町に戻っています。 |
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小舟町の中でも歴史が古いお店が、扇子や団扇の【伊場仙】ですが、こちらはなんと徳川家康が江戸に入府した時に、家臣団と共に、三河から来て創業したという、なんと400年の歴史のお店です。 【いせ辰】同様、江戸絵師の歌川豊国、歌川国芳、歌川広重らの版元として名を広め、その作品は世界各国の美術館にも展示されています。 江戸明治大正と西堀留川沿いにあったようですが、現在は近くの伊場仙ビル1階で営業を行っており、店内には綺麗な扇子が飾られています。 またこのビルの一角に展示されている錦絵も小さな美術館のようです。 前々頁の【小舟町天王祭】の版画にも、《一勇齋国芳》という銘が見えますが、こうした浮世絵師の版画は小舟町で刷られていたようです。 他にも天王祭を描いた版画がありますが、神輿の周りを団扇が舞っている画もあります。 これは、小舟町には団扇問屋が多い事から、おひねり代わりに団扇を投げていた様子を描いたもので、その為この【小舟町天王祭】は別名【団扇天王】とも言われていたそうです。 雑誌や写真がなかった時代ですから、こうした版画や錦絵などは、皆こぞって買って見ていたのでしょう。 飲食店関係では、隣の人形町には、老舗がたくさんあります。 小舟町が問屋の街と言えば、人形町は文字通り人形芝居や人形が売られていた庶民の街で、その為飲食店も多く、古くから続く老舗が現在もその味を受け継いでいます。 散歩をしていても、良い香りが漂ってきますが、また次の機会に・・・。 |
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最後に小舟町の昔の残りが、鳥居と共にありました。 まず最初は、【椙森神社(すぎのもりじんじゃ)】です。 小さいながらも、境内には能舞台があり、前頁の祭囃子のように、大祭の際は能や芝居が行われる場所でもあります。 千年前からと言われるこの神社は、新橋の烏森神社、神田須田町の柳森神社と共に、【江戸三森】と言われ、庶民はもちろん大名衆まで広く信仰を集めたと言われます。 また人の賑わいが多い地だったことから、江戸時代にはこの神社では富くじ興行も行われており、境内には【富塚】もありました。 そうした事から、商売及び福富の神として信仰を集め、宝くじを購入した人たちも良く御参りに来ていますが、現在の社は関東大震災で焼失した後、昭和6年再建のものです。 お次は小舟町交差点近くの【常盤稲荷神社】ですが、ビル群の間にこじんまりと建っていました。 この神社は太田道灌が江戸城を築城した際に、京都の伏見稲荷の御霊を分けて頂き、その後小舟町界隈の魚河岸の水神さまとして祀られます。 魚河岸の人たちは、水神さまの【常盤稲荷神社】に初鰹や走りの秋刀魚をお供えして大事にし、水神祭などは神田祭や天王祭と並んで盛大なお祭りだったそうです。 そうした事からか、小さい境内には魚河岸関係の奉納物もみえました。 |
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そして最後が前述【出世稲荷神社】です。 町中に立つ出世稲荷の旗を目指して進むと、マンションの入り口になり、そのマンションの中を入っていくと、一番奥に鳥居と神社がありました。 それにしても今まで色々な神社を見ましたが、マンションの奥に佇む神社はあまり無かったような気がします。 近くの立て札を見ましたら、こちらも京都伏見稲荷の御霊を祀っており、その本尊は江戸初期の振袖火事から、昭和の大戦の戦火を免れたと記載されておりましたので、400年程前から祀られている事が判ります。 社殿は関東大震災で消失したそうですが、古くは江戸時代の初代市川団十郎が日参し名を上げたり、この地で出世をした商店や、芸能関係の方々がお参りに来ていたそうです。
ところでこの出世稲荷の片隅に、前述の【は組】と刻まれた手水石、【は組 木遣り塚】なるものが奉納されていました。 これは前述の【江戸町火消し】の事で、この地域を火事から守っていたのが【は組】です。 こうして訪ねた小舟町は古い歴史がちゃんと残されている、江戸の町といった感じがしました。 |
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