2-23.上野公園 いまむかし 1 ← ・ → |
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【大仏様】は江戸時代に発生した地震や火災の度に、頭が落ちたり損壊をしたりしてきましたが、その都度修復されてきました。 その後明治新政府が設立すると、幕府を復活させようとする旧幕府軍と新政府軍との間で戊辰戦争が起こり、鳥羽伏見の戦いの際に大阪城にいた徳川慶喜が江戸に入り蟄居したのが寛永寺です。 新政府軍は江戸総攻撃を決め、その決戦間近になって勝海舟と西郷隆盛の会談により、江戸城は無血開城され徳川慶喜は水戸に蟄居する事となり、江戸総攻撃は免れました。 が、最後まで抵抗する旧幕府軍が彰義隊を結成して終結したのが上野寛永寺です。 今の上野公園の入り口の坂の所にあった【黒門】と、反対側の【谷中門】近辺(伯父の家近く)から始まった戦いは、最初は膠着状態でしたが、官軍が誇るアームストロング砲の砲撃が始まると、その新型兵器の威力やすさまじい爆音と共に形勢は変わり、旧幕府軍は一部は逃げ落ち壊走し、残った寺院は焼かれ、上野のお山は一面焼け野原と化したそうです。
上はその時の戦を描いた古い錦絵【本能寺合戦之図】ですが、黒門と共に寛永寺本堂が燃えている様子や砲撃の跡、敗走する旧幕軍と進撃する官軍の様子が描かれています。 ところで、錦絵の題名が【本能寺合戦之図】と記されていますが、これは当時の明治政府の目を逃れる為のもので、この頃描かれた錦絵等は、過去の合戦の事例になぞらえた題字が多かったそうです。 |
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そして右は上野公園内 彰義隊墓地の横に立つ【彰義隊奮戦之図】です。 後に彰義隊生き残り隊士の小川興郷が画家に指示して描かせたもので、他に存在する錦絵と違って、史実に忠実な絵と伝えられています。 この小川興郷は、最期の将軍徳川慶喜公の元家臣でもあり、明治7年になって明治政府から許可を得、上野公園に彰義隊の墓を建立しています。 |
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こちらは現在の上野公園の桜並木の入り口ですが、かつてこの場所には黒門が建ってました。 花見の季節にはたくさんの人で賑わいますが、この場所で壮絶な戦が行われ、江戸から明治に移り変わり行く舞台となった事を知る人は、いまや少ない事と思われます。 この上野戦争が起ったのが慶応4年(1868)こと江戸時代最期の年で、この年10月から時代は明治と移り変わります。 |
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この【上野戦争】の戦いの火蓋が切られた黒門は、現在も戦いの際の銃弾の跡もそのままに、荒川区の円通寺に現存しております。(写真右) これは累々と横たわる彰義隊の遺体を見た円通寺の和尚が、寛永寺御用商人の三河屋幸三郎や町火消しの新門達五郎らと共に遺体を弔い、円通寺に合葬したことから、明治40年になって円通寺に下賜されたものです。 尚、上野公園西郷隆盛像近くの【彰義隊戦死の墓】がある場所が、この時火葬された場所です。 それにしましても、おびただしい程の銃弾の跡を見ただけでも、その戦の凄まじさが判ります。 因みにこの上野戦争の際の新政府軍総指揮は大村益次郎で、現在も靖国神社の真ん中で銅像となって上野を見据えていると言われています。 そして黒門攻撃を担ったのが、西郷隆盛率いる薩摩隊でこの近くに銅像となって建っています。 この時の逸話で、戦い前に配置隊形を見た西郷隆盛は、 「薩摩兵を皆殺しにするつもりか?」 と大村に問い、大村は 「さよう」 と答えたそうです。 それだけ黒門は激戦が予想され、それに対して、最強の薩摩郡が配置されたと言う事でしょう・・・。 |
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さて、上野戦争で多大な被害を受け、寛永寺本堂を始め多くが焼失した上野のお山ですが、幸いな事にも【大仏殿】や【時の鐘】、【東照宮】や【清水観音堂】などは焼けずに残りました。 この後上野公園の寛永寺寺領は、新政府軍の東京府管理下に置かれ、しばらくは焼け野原のまま放置されていました。 その後新政府が、上野の山の樹木を木材として切り倒すと通告し、東京府が拒否を唱えます。 次に不忍池は埋め立てて水田にすると言い、更にこの一帯に大学病院を建築して、寛永寺は現在の位置に縮小移転する事となりました。 |
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大学病院建設の基礎工事も順次始まりましたが、この時これに異を唱え、 『こうした素晴らしい場所は西洋都市にならって公園にすべきです。』 と明治政府に訴えたのが、オランダのボードワン博士です。 博士はオランダの医師で、尚且つ病院建築を唱えた幕府の医師であった石黒忠憲の師でもありました。 博士は既に決まった大学病院になる地を視察に来たのですが、上野公園の広さと素晴らしさを目の当たりにし、明治政府に働きかけます。 推進者の師であった事と、当時の《西洋に追いつき追い越す事》を国是にしていたことから、ボードワン博士の意見を取り入れ現在の上野公園になったことから、博士は上野公園生みの親とも言われています。 またこの時上野公園一帯に建設計画があった大学とは東京大学の事で、現在も上野公園不忍池横には東京大学病院があります。 これら博士の功績を称え、また上野公園開園100周年記念として、昭和48年に現在の大噴水横に博士の銅像が建てられました。が、実は銅像の人物は博士ではなく、博士の弟と間違っていた事が判明し、本当のボードウィン博士の銅像に直されたのはつい最近の2006年の事で、ニュースでも話題になって取り上げられたことは記憶に新しいことです。 本当のボードワン博士は、今までの長い髭が印象的だった姿から、なんとなくすっきりした博士になりましたが、以前の銅像はと言いますと、その後オランダ大使館に返されたそうです。 こうして大学病院になる事は免れた上野のお山は、明治6年に日本で初めての公園として指定されましたが、その影で戦災を逃れた上野大仏の【大仏殿】は撤去され、大仏様も売却されかけながらも何とか残り、露座の姿となりました。 その後も上野公園は桜の植樹がなされ、明治9年には公園内の茶店が撤去され、上野精養軒が開業し、明治天皇のご臨行のもと、上野公園が開業しました。 |
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翌明治10年には、【第一回内国勧業博覧会】も開催され、これを機に上野での博覧会の開催が恒例化されて行きます。 更に明治15年には動物園と博物館も完成し、上野公園は皇室御料地となり宮内省の管理下に置かれます。 この頃は宮内省庁管理と言う事もあって、公園の木を切るにしても移動をするにしても、許可が必要だったそうですが、大正13年になり、昭和天皇のご結婚の慶事記念として東京市に賜り、それ以来【恩賜上野公園】という名称になりました。 |
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またもう一つ焼け残り、大正時代の写真にも写っている【鐘撞堂】は、現在も上野大仏に近い、精養軒横に建っています。 この【時の鐘】は、文字通り《時報の鐘》として、江戸時代に江戸城内にて撞かれていました。 その後日本橋に移され、江戸の町が大きくなる元禄時代になって、上野、浅草、本所・芝・市谷・目白・目黒・四谷などにも置かれ、江戸の庶民に時を知らせる事となりました。 現在も朝と夕の六時と正午の一日3回、時の鐘が突かれていますが、上野公園の【時の鐘】は1767年鋳造のものですので、220年前の音色を聞くことが出来ます。 |
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大正時代の出来事(元年-3年・4年-8年・9年-11年・12年-15年) |