4-4.昭和6年頃・諏訪神社大祭・言問通り   ・ 


言問通りを進む諏訪大社大祭の神輿/昭和6年頃

一見してお祭りと判る写真ですが、これは、伯父の住んでいる谷中地区の総鎮守でもある【諏訪神社】の例大祭の時の様子を撮影したもので、昭和6年から8年頃のようです。

【諏訪神社】は日暮里駅に近く、その歴史は八百年前に遡りますが、明治初期から日暮里地区と谷中地区の総鎮守として信仰をあつめられたそうです。
因みに諏訪神社の狛犬と鳥居は、江戸時代にこの地区の町火消しだった【れ組】が寄進したもので、今でも鳥居には大きく【れ組】と朱色の文字が彫られています。

撮影は前と同じ言問通りで、左手が【浄名寺】の塀になり、道路奥は入谷方面になります。
提灯や龍のような先導の後に神輿が続いていますが、威勢の良いお祭りといった感じが伝わって来る1枚ですね。

昔のお祭りなので、皆さんお揃いの半被かと思いきや、意外と思い思いの服装で半被や浴衣等と、その格好はさまざまなようです。それでも【谷中町】という銘が、神輿他や半被に記されています。
それにしても、写真左手前の男性の姿は褌一丁です。
今では考えられないような姿ですが、この当時は当たり前だったようです。
真っ黒なのは、きっと、このお祭りの時期は、常にこの褌スタイルがお決まりだったのでしょう・・・。


神輿の拡大

現在の言問通り

そして下は、同じ位置で撮影した現在の言問通りですが、木造の建物等はすっかり姿を消し、今はビルが立ち並んでいます。
歩道の石畳も味気のないコンクリートに変わってしまいましたが、唯一左のブロック塀の下部の石垣だけは、現在も昔のままでした。 




言問通りの友人と土田病院

こちらも同じ言問通りですが、上のお祭りの時よりも少し根津寄りで友人を撮影したものです。

お祭りの写真の右端に写っている、他とは違った感じの建物が、こちらの写真では、はっきり判ります。
三角屋根で、周りの家屋に反してモダンな感じですが、このビルは現在も同じ場所にある【土田病院】で、神経科の病院として昭和初期に開業し、当時としてはとても近代的なビルとして知られているものです。
現在でこそ改装され、新しくなっていますが、この頃としては周りの建物と違ってとても目立つ病院だったそうです。

また友人の後ろには自転車が何台も見えますが、そのうち1台は、どうも三輪タイプのようです。
この頃は商業用自転車として、荷物がたくさん積める三輪自転車も多かったようです。


この言問通りは、現在でこそ【言問橋】から本郷までを通じる1本道ですが、明治43年の地図には《言問通り》の記載は無く、大正6年の地図でようやく道路が表記されています。
ただその時点でも上野桜木と入谷を繋ぐ橋はありません。
つまり写真に写っている通りの先は、昭和3年頃までは広い道路はなく、行き止まりだったという事です。
正確には道はあったものの、細い坂道で、車両が行き交う道ではなかったそうです。

現在はJRをまたぐ形で橋が架かり、坂道には【寛永寺坂】という表札もありますが、この表札にも橋は昭和3年頃の架設と記載されています。


陸橋になった現在の寛永寺坂

伯父に聞きましたところ、確かに子供の頃は橋がなく、文字通り【坂道】になっていたそうです。

「昔は橋なんてなく、坂道になっていて馬車なんかもその坂道を通っていたからな〜」

との事でしたが、今のように線路の部分は急な崖ではなく、馬車も通れるようなゆるい坂だったようですし、元々この一帯は寛永寺の火除地として樹木が生い茂っていたようです。

今でこそ、この橋の下は山手線をはじめ、京浜東北線、高崎線と10数本のレールが通っていますが、昔は線路の数も少なかったものの、関東大震災で上野駅が焼失した事を期に、火除地の樹木も伐採され、坂道が削られて、急な崖のようになっていったそうです。

いずれにしても、この橋が出来たおかげで、入谷方面への交通の便が良くなり、現在は重要な幹線道路となっています。
伯父たちが通っていた根岸小学校へのルートも、踏切を渡らなくてすむ分ちょっとは楽になったそうですが、橋が出来る前は、この橋の地点から坂を降りて、踏切を渡るか、谷中の墓地を抜けて行くかだったそうで、キツネが出る崖とも噂をされていたそうで、子供心に少し気味が悪い道のりだったようです。

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