3-30.昭和初期の絵葉書 朝日新聞   ・ 


写真と一緒に絵葉書などもたくさん残っていました。
大正時代のオリジナルポストカードは【大正11年・ポストカード】に記載の通りですが、市販の絵葉書も多くあり、往時を偲ばせてくれます。
そんな一つが下の朝日新聞の絵葉書です。


袋はねずみに齧られたのか、ギザギザに欠けており、中のハガキも同様でした。
綺麗なカラー印刷だったので、当初は戦後のものと思っていましたが、改めてよく見ると、【郵便はかき】の文字が【が】ではなく【か】という事に気が付き、少なくても昭和8年以前のものとわかりました。
(昭和8年にそれまでの“郵便はかき”表示が“郵便はがき”表示に濁点がつきました)
下はその1枚です。


昭和4年以降発行の朝日新聞の絵葉書
綺麗な青空が広がり、橋の向こうにビルが建っていますが、これは昭和2年に竣工した朝日新聞東京本社ビルです。

東京市丸の内数寄屋橋畔、従業員一千五百八十六人、社屋総坪数四千二百余坪、朝日式電光並に超高速輪轉印刷機十五台

旅客飛行機・高速度軽飛行機其他十五機整備

シーメンス式電送写真装置、流動式電光ニュース

本誌朝夕刊十四頁 定価一ヵ月九十銭

等と印刷してありますが、流動式電光ニュースが朝日新聞ビルに登場するのは、昭和3年11月ですので、この葉書は昭和4年以降に発行されたと思われます。
いずれにせよ、80年以上も前に電光掲示板があったとは驚きです。

朝日新聞社ビルは、現在は築地にありますが、かつては絵葉書のように数寄屋橋にありました。
現在は有楽町マリオンが建っていますが、昭和8年には隣に日劇も建ち、有楽町を代表するシンボルでもありました。

はがきに写る橋が数寄屋橋ですが、江戸時代の寛永6年に架けられたのが最初で、現在の竹橋から大手町、東京駅から数寄屋橋、そして新橋、溜池、赤坂見附方面、更に四谷、飯田橋へと【のノ字】を書くようにに堀があり、そこにかかる橋でした。
その後昭和3年に葉書のような石造りの二重アーチの橋に架け替えられています。
尚、この数寄屋橋は、昭和33年に首都高速道路の建設の為埋め立てられています。

またこの有楽町の名は、江戸時代にこの近辺に織田有楽の屋敷があったことから由来し、数寄屋橋の名も、茶人としても名が高かった織田有楽の数奇屋風茶室から来ていると言われています。


昭和4年以降発行の朝日新聞の絵葉書

左も同じ袋に入っていた絵葉書の一つですが、
(1)本社の新鋭プス・モス軽飛行機
(2)朝日式電光輪轉機及超高速度輪轉印刷機
(3)本社六・七階の大講堂
  (一千五百人収容)
と記載されていますように、1番上は朝日新聞が当時航空機班として力を入れていた取材用の飛行機で、デ・ハビランド式 プス・モス型単葉軽飛行機です。

NEWSがあればこの飛行機で飛んでいって取材をしていたようですが、今では当たり前のことでも、当時としては画期的なことだったのでしょう。

2番目は新聞の印刷機のようですが、これも最新式のようです。

3番目のホールは収容が1500人で、当時の講堂としては大きなホールでした。
現在もこうしたホールは受け継がれ、有楽町マリオン内に有楽町朝日ホールとして各種公演が行われています。


下も同じく数寄屋橋と朝日新聞ビルですが、こちらは手描きではなくモノクロの写真です。
この頃はカラー写真はまだなかった為、カラーの絵葉書はモノクロ写真に手描きで着色したものを印刷していました。

尚、朝日新聞社屋横に、日劇こと日本劇場がオープンするのはこの後昭和8年になってからです。


数寄屋橋絵葉書


←BACK ・ NEXT→

昭和の出来事(昭和元年昭和2年昭和3年昭和4年昭和5年

昭和からの贈りものTOPへ