昭和からの贈りもの 大正時代の出来事
大正時代の出来事 大正元年〜大正3年 1912-1915  ←(明治へ)
大正時代とは【大正デモクラシー】といった言葉に代表されるように、自由主義や民主主義の思想が産まれ、そして西欧の文化を積極的に取り入れた時代であると言われています。

普通選挙が行われ、男女平等が論じられ、日本初のメーデーも開催されました。
また、【14.大正中頃・モダンボーイ】にもありますように、【モダンボーイ】や【モダンガール】といった言葉に表されるような、西欧の文化が浸透してゆきます。
【今日は帝劇明日は三越】と言う言葉は大正時代を代表する言葉と言われ、今の流行語大賞とも言えます。
このキャッチフレーズで表されるように、百貨店の登場と共に、消費時代が到来したとも言われています。
こうした新しい文化の到来と共に、さまざまな会社や商店が創業し、その宣伝の為広告やチラシ等も多くなったようですが、手元にある明治時代から大正時代の新聞を見ましても、大正時代に入ってから、新聞広告が少しずつ見られるようになっていったことが判ります。
更に祖父が勤めていた綿糸関係ですが、この時代の新聞記事には、鉄鋼や造船などの製造関係よりも繊維関係の記事がとても多く見られ、如何に紡績関係の需要が多かったかも伺われます。



大正元年 1912 春の小川、村の鍛冶屋、早春賦

大正元年は明治天皇の崩御により7月30日に改元されましたが、これ以降全国的に、【大正屋】とか【大正○○】といった屋号の店が急増します。

また、《大正》と言えば、独特な音色を奏でる【大正琴】が浮かびますが、この年名古屋の大須で開発され、最初は【菊琴】と言う名称で大須観音で発売されました。

二弦琴とタイプライターをヒントに作られたようですが、簡単な操作から、この後爆発的な人気となります。


銭湯などで定番のタイル絵が登場したのもこの頃で、神田の銭湯が子供たちを喜ばそうと画家に頼んで富士山の絵を描いたのが始まりです。

この後あっという間に全国の銭湯に広まりますが、現在このタイル絵を描く職人さんは数人となっています。(写真1)


掃除機の元祖と言える手動式の塵茶吸収掃除機【バキュームクリーナー】が発売されたのが8月です。

販売価格は1台\60で現在の貨幣価値に換算すると、何と60万円前後です。
もちろん庶民にとっては高値の花で、掃除はもっぱら箒でした。


9月には日本活動写真こと【日活】が創業されます。
翌年には撮影所も完成しますが、これによってますます映画が流行してゆきます。


日本初のバーの【紙谷バー】が浅草にオープンしたのは11月で、今でも浅草で古い佇まいを見せてくれます。(写真2)

                                                    

1.定番の富士山の絵・江戸東京たてもの園

2.大正元年オープンの神谷バー

大正2年 1913 鯉のぼり

お勉強に無くてはならない鉛筆が販売されたのが2月です。
開業したのは、【小川春之助商店】こと。現在の【トンボ鉛筆】です。

写真は昭和の鉛筆ですが、1本は【トンボ最高級製圓鉛筆】となっています。また硬さもHBや2Bなどではなく、【軟1】と表示されています。(写真3)


森永製菓がミルクキャラメルの名で発売したのが6月の事です。
当初はバラ売りで大人向けとして作られたそうですが、翌年の東京大正博覧会で20粒入り小箱(十銭)が販売されると更に大人気となったようです。


宝塚歌劇団の前身である【宝塚唱歌隊】が設立されたのが7月です。

第一期生16人が採用され、12月には宝塚少女歌劇養成会と改称されますが、当初の目的としては、箕面有馬電気軌道(現・阪急電鉄株式会社)が設立した宝塚新温泉の旅客誘致企画として設立されました。

事実翌年からこの宝塚新温泉内の劇場にて、少女たちによる歌と踊りの華やかな舞台公演が行われましたが下がその時の舞台の様子で、第一回公演の歌劇「ドンブラコ」です。(写真4)

この宝塚歌劇団で18年を過ごした私にとっては、宝塚は第二のふるさとでもあります。


3.古いトンボ鉛筆など

4.宝塚少女歌劇第一回公演「ドンブラコ」

大正3年 1914 ふるさと、朧月夜

3月から7月にかけて上野にて【東京大正博覧会】が開催されましたが、この時日本で初めて登場したのが【エスカレーター】です。
(写真5)

第一会場と第二会場を繋ぐ近道として設置され、何と乗車料が十銭だったにも関わらず、連日満員の大人気だったそうです。

そうした事から、【エスカレーター】が設置された3月8日は《エスカレーターの日》とも言われています。

この博覧会は全国の名産名品をを集めた博覧会で、ケーブルカーや国産初の自動車が登場したり、また、前年発売されたばかりのキャラメルも、箱入りで登場し人気を博しました。
他にも長崎の文明堂のカステラ、鎌倉ハム、名古屋の八丁味噌等も出品され、開催中750万人もの人が訪れました。

この数字は当時の全人口の一割以上で、東京の人口の3倍以上にあたる数です。


こうした国際的な博覧会が開催されている反面、7月に勃発したのが第一次世界大戦です。


前述のエスカレーターが本格的に登場したのが、10月に新装した日本橋三越です。

エスカレーターと共にエレベーターも登場しますが、同時に入口の青銅のライオンも登場します。
その後戦災や空襲の被害を免れ現在も健在です。


伯父たち子供たちの楽しみの一つの【少年倶楽部】が創刊されたのが11月です。

大正8年に発行された【少年倶楽部】が手元にありますが(写真6)、詳しくは《昭和5年・少年倶楽部・付録》の頁にも記載しております。


そしてこの12月に開業したのが首都の顔とも言える赤レンガの【東京駅】です。
写真7は昭和初期の東京駅ですが、現在とは屋根などの形が異なります。

現在、開業当時の姿に戻す修復工事が始まっていますが、ビル郡の狭間の横に長い赤い東京駅は堂々としています。


この年国産初のキューピー人形が作られます。
また三越でもアメリカから初輸入するようになります。


また【流行歌】と言う言葉が使われ始めたのがこの頃からです。


5.大正東京博覧会でのエスカレーター・絵葉書

6.大正8年発行の少年倶楽部

7.昭和初期の東京駅・絵葉書

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