2-7.水神八百松を訪ねて・2 ← ・ → |
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江戸時代から明治時代になり、【水神宮】は【隅田川神社】と名称が変わりました。 その後関東大震災を経て、防災の為に移転しながらも、現在も隅田川沿いにありますので実際に行ってみました。 墨堤通りと隅田川に挟まれた場所にあり、駅で言うと東武伊勢崎線の東向島駅、もしくは鐘ヶ淵駅近くになります。 まず、神社の近くに行って驚くのは、突如現れた、都営白髭東アパートの巨大なビル群です。 高さ13階、18棟のアパート各棟は、都市防災計画の基で建築され、万が一の災害があった際には、各棟が防火扉や防火門で繋がる構造となっています。 災害時にはアパート群の内側の広い公園を、災害から守る役目があり、そのアパート群が立ち並ぶ距離は延々1.2kmに及ぶ程です。 こうした計画は、関東大震災や東京大空襲などによる災害や戦災を教訓として培われてきたようです。 またこのアパート群の近くに架けられた【水神大橋】も、都市防災計画の中で架設された橋で、万が一の際に、両岸の防災地域を結ぶ為の、防災連絡橋の役目を持ったもので、隅田川に架けられている橋の中では3番目に新しい橋です。 橋は昭和63年に完成していますが、当初は歩行者専用橋として利用され、車両の通行も出来るようになったのは、完成から10年近く経った平成8年の事です。 ただ現時点も主要幹線道路とは直結はしていない為、東京都内でも知る人ぞ知る橋の感もあります。 私もこの【隅田川神社】を訪れた際に始めて徒歩で渡り、橋から隅田川を望みましたが、水神の名らしく、親柱は波の形をしていました。 この【水神大橋】は、その昔は【水神の渡し】があった場所でも有り、また橋が架けられている両岸は、前述の鐘紡の紡績工場があった所でもあります。 【水神大橋】から見た、元々【水神宮】があったと思われる場所も、川岸がちょっと出ており、かつて鳥居が立っていた場所の雰囲気は残っていましたが、いまや川岸はコンクリートの堤防となり、反対側には、東京ガスの巨大な丸い建物や大きなビルが立ち並んでいました。 |
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そしてこのアパート群の中の、道路沿いの一角に隅田川神社の鳥居が立っていました。 白髭橋方面から墨堤通り沿いを進むと、突然左手に大きな鳥居が現れ、このアパートの中に神社があるような雰囲気は全くありませんが、この鳥居をくぐり、更に防災構造のこのアパートを抜けると一帯は広い東白髭公園となります。 |
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過去に起きた関東大震災の火災の被害を教訓に整備されたこの一帯は、万が一の震災や有事の際は、このアパート群の防火扉が閉まり、ビルそのものが壁となります。 そしてこのビル群の内側の東白髭公園一帯が避難場所となるように、【都市防災拠点】として整備されたものだそうですが、その姿は他を圧倒する感じがします。 でも、一歩公園内に入ると、表通りの喧騒とはまったく異なる、静かな公園が広がっていました。 |
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【隅田川神社】は、その都市防災拠点となったアパート群の奥にあり、上には首都高速6号線の高架が架かり、後ろには隅田川の高い堤防を背にし、まさにひっそりと佇んでいる感じでた。 【水神】という水の神様の通り、神社の真後ろには隅田川が流れていますが、この高い堤防で隔たれ、残念ながら、今では隅田川の川面すら見ることはできなくなっていました。 もちろんかつて広重が描いた【筑波山】も、高い堤防や高速道路の高架の為、今やその片鱗すら見えなくなっていました。 それでも、さすがに水の神様らしく、境内には【石の亀】や、【船の錨】など、水や川、舟に関するものが祀ってありました。 また神社と言えば、二対の狛犬が座っているのが一般的ですが、ここ【隅田川神社】では狛犬のかわりに、二対の立派な【亀】が石の上に鎮座しています。 |
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神社にお参りをした後、本殿の裏手に廻りましたら、隅田川の堤防に向かって鳥居が立っていました。 前述の【東京府史跡】の中の【隅田川神社】の写真は、明治40年頃に撮影されたそうですが、この写真に写っていた鳥居が、この鳥居ではないでしょうか? かつて隅田川沿いからも参拝が出来るように立っていた鳥居ですが、堤防や高速道路の建設によって、この場所に移築されたものかと思われます。 |
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そして、先ほどの【狛亀】の手前に立つ【お百度石】の裏側に、《明治二十四年六月》と刻まれた文字と、【八百松】と文字が彫られていました。(前頁地図の★印が八百松碑の場所) きっとここが、古い写真にもあり、各界の方々が通った料亭、【八百松】が建っていた場所で、周りは緑と桜が鮮やかな場所だったのでしょうね。 今は前後左右とコンクリートで囲まれてはいますが、かつての名残りを知って訪ねた隅田川神社は、何故か懐かしい気もしました。 |
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