昭和からの贈りもの 第2章 大正時代

 2-6.水神八百松を訪ねて   ・ 


右の絵は、江戸時代末の絵師【歌川広重】が描いた浮世絵で、江戸名所百景の中の一枚【隅田川水神の森真崎】です。

季節は春の桜が咲く頃で、水神社と隅田川の向こうに見える筑波山を描き、安政三年の作といわれています。(下古地図も安政年間の地図です)
手前には大きな八重桜が咲きほころび、眼下には堤通りが描かれ、その向こうに【水神社】の鳥居がや森が描かれています。
隅田川には帆掛け舟や渡し舟が浮かび、対岸の真崎の向こうには筑波山が望まれますが、まさに名所たる景色だったことでしょう。

【歌川広重】は、東海道五十三次を描いた事で知られていますが、この時代に表現した遠近法などは【ゴッホ】にも多大な影響を与えたともいわれています。
またこの江戸名所百景には、上記以外にも隅田川を描いた作品が数多く見られます。



歌川広重 隅田川水神の森真崎
そして下は、大正八年刊の【東京府史跡】に掲載されている、【水神の森】の写真です。
木々が生い茂る中に鳥居が建ち、その下には隅田川の川面へと続く石段が見えますが、まさに水の神様といった感じがします。



水神の森/大正8年刊 東京府史蹟

東京府史跡には
《隅田川神社は南葛西郡隅田川村にあり、隅田川の左岸に臨み、水神船霊の二神を祀れるが故に水神の森と称し、今猶水村の景趣を存す。昔はこの森の南に、奥州街道に當りし隅田宿ありしといふ。源頼朝・太田道灌など此の邊に橋を架せし事ありと言傅へられ、又在原業平が「いざ言問はむ都鳥」と詠みし處も此の邊ならんといふ。》
と記載されていますように、かつて江戸時代以前には、この近辺には橋が架けられていたと言われ、隅田川を行き交う舟も、この近辺の古杭が障害になっていたとの記録もあります。

【水神八百松】の家屋は、上の写真には写っていませんが、鳥居の右手の方にあったと思われます。

いずれにしましても、当時この隅田川を行き交う船頭さんたちは、この【水神】近辺に来ると、鳥居の前で頭を垂れて安全を祈願して航行していた事が思われます。



こちらの右の地図は、江戸時代、明治時代、そして現在の【水神の森】近辺の地図です。

江戸時代の地図は、安政年間の地図ですので、丁度上の浮世絵が描かれた当時のもになります。
としますと、地図の【長崎】と記された近辺から【水神】方面を描いたものと思われます。

この江戸明治の地図を見ても判りますが、当時は隅田川に注ぐ支流や掘が多く、この近辺には橋がなかった為、渡し舟が隅田川を渡る交通手段でした。

江戸時代の地図の下には【百姓渡し】の文字が見えますが、これは後の【橋場の渡し】になります。

その後明治中ごろから昭和の初めまでは、【水神の渡し】が出来ますが、その名残りなのか、昭和63年にこの位置に架けられた橋は【水神大橋】という名前が付いています。

また、その昔は、この辺りで隅田川が海に注ぐ河口であったとも言われています。

【八百松】は丁度地図の中程の所に建っており、川床のような桟敷は、地図上に記載がある堀の部分でしょうか?
関東大震災を境に、この近辺の掘割や水路も震災復興事業の中で埋め立てられ、【八百松】も写真の場所から他に移転され、その後廃業とりました。

一方【隅田川神社】は、防災上の理由と首都高速道路高架建設の為、元の場所から、【八百松】があった場所に移動しました。
現在も向島には有名料亭が数多くありますが、江戸時代から飛鳥山と並んで桜の名所だったことから、料理屋や茶屋等が建ち始めたのが、向島の料亭のはじまりと言われています。

三遊亭円生師匠の落語にも【水神】という落語がありますが、この【水神】とは水の神様として、かつては【水神さま】または、【水神宮】と呼ばれ、隅田川の総鎮守として船頭や船乗り仲間から厚く信仰され、前頁の写真にありますように、昔は隅田川からも舟伝いに参拝できたようです。

一説によりますと、源頼朝が東征の折に暴風雨に遭い、この地に水神を祀って祈願したとも言われ、八百年以上の歴史の水神様とも言われています。

また、【水神の渡し】もそうした【水神】に参拝するために渡され、人々に利用されていたとの事です。



江戸安政年間の水神八百松近辺地図

明治時代の水神八百松近辺地図

現在の水神八百松近辺地図

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