5-37.昭和初期・上野公園前 2   ・ 


昭和初期・上野公園前/下町風俗資料館蔵

上は下町風俗資料館でたまたま見た上野公園前の絵葉書で、昭和初期のものと思われます。
「(東京)上野公園前、廣小路と付近の街観」と説明が付いていますが、位置関係といい、角度といい前頁の夜景写真と同じ場所から撮影したように見えます。

道路を見ますと、夜景に写っている市電の停留所の【上野駅南口】がありません。
と言う事は、この写真は前頁夜景の前に撮影されたようです。
これ以外にも写真を見比べますと、随所に違いや共通点がある事が判ります。

まず真ん中の塔はやはり【仁丹塔】です。
この塔が上野にお目見えしたのは大正11年ですが、仁丹の創業者である森下博氏は、仁丹の販売において、珍しく画期的な宣伝を用い、日本で広告を展開した元祖であり、日本の広告王とも言われています。
仁丹の独特なラベルもそうですが、この仁丹塔も画期的な宣伝と言われ、明治40年には大阪駅前に第一号の仁丹塔を建設し、その後東京神田や、この上野、浅草にも建てられます。


仁丹塔手前にあったカフェーのネオンは無く、代わりにキリンの看板が見えます。
また隣の丸い窓のビルは同じですし、その手前の高島屋のマークもあります。

更にその手前の米久は【肉】の看板と共にありますが、手前の京成聚楽ビルは、上の写真ではまだ建っていないようで、良く見ると柵が立ち、空き地のようにも見えます。

またタクシーが停まっていた道路には、自転車が行き交っています。


正面で光っていたのは、やはり時計塔で、4階建ての白っぽいビルは野村時計店のようです。
現在は鈴本演芸場がある場所近辺と思われますが、昼の写真をみると、花王石鹸の大きな看板が見えますが、夜景には写っていないようです。

そして道路左側にあった京成上野公園駅はこの時はまだ出来ておらず、石垣が組まれています。
この駅は昭和8年12月に開業ですので、この絵葉書は昭和8年以前に撮られた写真のようです。

尚、写真に写る上野広小路ですが、元々は上野公園内にあった寛永寺への参道入り口として設けられた通りで、将軍家の御成道街道でもありました。
特に江戸時代の度重なる火災から、将軍家の墓所である寛永寺守る為に、現在の松坂屋近辺から上野公園まで、火除地として広い通りに整備され、それが上野広小路と呼ばれるようになったと言われています。

法衣や仏壇などを扱う店から、呉服店、蕎麦屋、菓子屋などが連なり、次第に旅籠や見世物小屋なども集まるようになり、江戸時代は、浅草広小路と両国広小路と並んで、江戸三大広小路と言われていた通りです。


また現在の松坂屋近辺は、旧町名を黒門町と言いますが、この町名は寛永2年に創建された上野寛永寺の総門が黒門と言われたことに由来します。
黒門町という名が付いていたからかどうかは不明ですが、この黒門町には、イモリの黒焼きを扱うお店が10軒も並んでいたそうです。
尚、この黒門については【上野公園 いまむかし】に詳しく記載しております。


←BACK ・ NEXT→

昭和の出来事(昭和9年昭和10年昭和11年昭和12年

昭和からの贈りものTOPへ