5-9.昭和10年6月・日本橋小舟町 八雲神社大祭 2 ← ・ → |
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伯父のたくさんの写真と一緒に、この日本橋小舟町の【八雲神社大祭】の様子を【絵葉書】にしたものも出てきました。 多少色あせてはいましたが、厚手の和紙に入った絵葉書は、全部で二十一枚あり、前々頁の祭りの実行委員らしき方々が居並んだ写真も葉書になって入っていました。 上の葉書の山車も、現在の大祭で曳かれているようですが、この山車もこの昭和十年の大祭にあわせて新しく作製したもののようです。
こちらは当時の【御仮屋】の様子の絵葉書ですが、御仮屋の中には御神輿が祀られ、屋根の下の提灯にも【八雲神社御假屋】と記されています。 御神輿の前には、祭壇らしきものがあり、お神酒や、鏡餅、果物や奉納の魚等がお供えとして並んでいますが、こうした【大祭】と言うものは、改めて神様をお迎えするという神聖な事であることが伺えます。 また【小舟町】という大きな提灯の奥には【は組】という提灯が二つ見えますが、これは江戸火消しの【は組】の事です。 江戸に町火消しを組織したのが、テレビでもお馴染みの南町奉行大岡越前と言われています。 そしてこの小舟町や堀江町、小網町、大伝馬町、小伝馬町等を受け持っていた町火消しが、この【組】です。 明治に入ってからは《町火消し》は《消防組》と名称を変え、その後《警護団》、《消防団》と呼び方が変わって行きますが、昭和10年当時は《消防組》として、火災の際は大きな役割を担っていました。 |
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上の左は小舟町の一角の小さな神社【出世稲荷神社】の片隅にあった手水用の水盤ですが、この街の消防組織の《は組》が赤くと彫られていました。 そして右が、4年に1度の【八雲神社大祭】が開催される際に、御仮屋が建てられ、ご神体をお迎えする場所でもある、【堀留児童公園】です。 元々この場所は、日本橋小舟町を流れていた二つの掘割の一つ、【東堀留川】が流れていた所でもあり、この【東堀留川】沿いに、祖父が勤めていた【斉藤弁之助商店】が建っていました。 ということは、この一帯は、江戸から明治大正時代と、日本の物流の中心地でもあったとも言えます。 昼時になると、近所のサラリーマンたちやOLさん達がお弁当等を広げてくつろいでいますが、いざ大祭となると一変して華やかな装いに変わります。 |
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大きな鳥居があり、奥には蔵らしき建物や重厚な建物等が建ち並んでいます。 通りの幅やその長さからしますと、かつて堀があった所を埋め立てたとおりと思われますが、現在はこういった鳥居はありません。 ただ、なんとなく道路が広く感じるのは、今と違って高い建造物がないからでしょうか? 道路真ん中には人が何かを引いているように見えますが、大八車でしょうか? 雨が止んだ早朝にでも撮影されたと思われますが、祭りの前の静けさといった感じがする一枚です。 |
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そして上の2枚が祭りの舞台のようです。 何か出し物がなされているようですが、かつてはこういった舞台が作られ、さまざまな演芸がなされ、一層盛祭りが盛り上がった事でしょう。 右には笛や太鼓、そして鐘が見えますので、活気のある祭囃子が響いていたと思います。 最近のお祭りでは、祭囃子はCDやテープの音が流される事が多くなり、こうした祭囃子を聞く機会が減ってしまいました。 が、小舟町のお祭りでは、現在も生きた祭囃子が聞く事ができます。 |
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上の写真は平成20年5月に、小舟町の椙森神社大祭の時に行った時のものです。 心地よい祭囃子が聞こえた為、椙森神社境内に入ると、能舞台では《悪鬼退治》という演目が行われており、そのお囃子はたった二人で演奏されていました。 笛と太鼓の二人といえども、そのお囃子は神社のみならず、小舟町界隈に鳴り響き、次々と人々がやってきていました。 まさに音楽の原点を見て聞いて感じてきました。 尚、この時は3年に1度の本祭との事でしたが、前述の御仮屋が設置される堀留児童公園には神輿や山車が置かれ、詰め所なども設置されていました。 |
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上に写っているのは、最初は酒樽と思っていましたが、よく見ますと屋根の方には、波間に泳ぐ鰹が見事に描かれています。 そして家屋の前の狭いスペースに樽が積まれています。 更に立て札を翌見ると、《奉献 鰹節 二百五十樽 東京鰹節問屋會》と描かれており、右側の提灯には《にんべん》という文字も見えます。 としますと、この商店は鰹節問屋さんと思われますが、現在も現在も日本橋宝町に本社がある創業1699年の《にんべん》関連のお店ででしょうか? 入り口らしきものも見え、人が出入りしているようですが、この大祭の為に造ったのでしょうか? 因みに《にんべん》は、かつてはこの小舟町に店を構えていた事があるようです。 また左手上の看板には《御蒲焼料理 高島家》という文字が見えます。 こちらの絵葉書には神輿や獅子頭と共にお供えの餅などが奉納されています。 そのお供えの文字を見ますと《小舟町日月堂本店》となっていますが、これは明治10年創業の和菓子屋さんの【日月堂】のようです。
現在も小舟町には、明治8年創業のうなぎ専門店【高嶋家】があり、小舟町の飲食店では老舗中の老舗ですが、前述の看板の《御蒲焼料理 高島家》と同じのようです。 現在では外観こそ綺麗になっていますが、古くから伝えられるタレと炭火焼のうなぎは、接待なども多いようですので、祖父の接待でも利用していたことでしょう。 また【日月堂】も現在も小舟町で営業を続けており、紅白饅頭やお赤飯などは、大祭の時のお馴染みのようです。 また、どら焼や紅白饅頭に自分のオリジナルの焼印を押すという、ユニークなサービスも行っているようです。 |
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こちらには《奉納》《八雲祭》という看板文字とあわせ、提灯や後ろの幕には《みやこ染本舗》という字が見えます。 【みやこ染】とは大正時代から続く家庭用染料の事で、当時は色々な用途で使われた人気の染料です。
この【みやこ染】は、現在も日本橋小舟町で「桂屋ファイングッズ」という会社が販売していますが、丁度この大祭の御仮屋が設置される堀留児童公園の入り口にこの会社はありました。 まさに大祭の入り口に会社がある事から、写真のような小屋も建ったのでしょうね。 こうして昔の絵葉書を見ても、地元の商店や問屋さん等が一致協力して祭りを盛り上げて行った事がわかりますね。 |
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上の写真も同様に【八雲神社大祭】の絵葉書ですが、右上は子供神輿でしょうか? また右は日本髪に装い、何かに扮しているようですが、地元の婦人会の方々でしょうか? 現在の小舟町は会社のビルが数多くたっていますが、写真の頃は住んでいる人たちも多く、また子供や婦人会の方も多かった事と思われます。 これ以外にも山車の写真や舞台の演目。 幟や旗に御仮屋の様子とさまざまですが、昭和10年のこの八雲神社大祭が、どれだけ待ち焦がれたもので、しかも町内会ぐるみの、とても大きな祭りであった事が伺われます。 逆に今のお祭りに付き物のような屋台は見当たりません。 現在のお祭りというとは違うのは、庶民の人たちみんながお祭りを待ち望み、そしていざお祭りが始まると、みんなで繰出して楽しんだのでしょう。 そんな感じが絵葉書を見ているだけで伝わってきます。 |
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