3-35.昭和初期の絵葉書 地下鉄銀座線2 ← ・ →(昭和6年へ) |
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写真の中の立て札にも、「切符は入りません。十銭白銅をお入れ下さい」と書かれていますが、この地下鉄は当時としては画期的な自動改札口を採用していました。 下の絵葉書を見ると判りますが、硬貨を入れると人一人が通れるように十字の回転翼が回る仕組みですが、現在も遊園地などの入り口で見るスタイルです。 こうした画期的な入場方法も、人気に拍車をかけた一つのようですが、もう一つの人気が地下鉄道職員だったそうです。 右端に若い地下鉄職員の姿も見えますが、海外の制服のような、当時としては斬新なデザインと、若い職員が、地下鉄道の特色でもあったようです。
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こちらは《車体全景》と記されていますが、この頃の車両は東京地下鉄1000形1001号車両と言われ、当時木造車両が主流だった中で、台車はもちろん、屋根板や内張りまでもが鉄で作られた、全鋼鉄製の車両です。 更に、ATS自動列車停止装置という、緊急時に自動で列車が止まる装置を採用した下記的な車両でした。 これは地下鉄道と言う事での不燃対策や安全対策として取り入れられたもので、特に自動列車停止装置は、最近まで他の車両でも採用され続けていました。 また葉書でも判るように当時の車両編成は1両のみでしたが、沿線が伸びるにつれて車両数も多くなって行きます。 下は《車内美観》と題された絵葉書ですが、内部もスチール製で、床面はリノリウムが敷かれていました。 地下鉄ということから、車内の明かりにも注意をしたつくりで、直接照明ではなく間接照明となっていたようです。 また車内のつり革が斜めになっていますが、これは使用しない時はバネの力で外側に跳ね上がり、乗客がつかまると、下に引っ張られると言う構造です。 但し、ばねの力で戻る際に、乗客の頭にぶつかるというトラブルも発生したようです。 この1000形車両ですが、現在も葛西の地下鉄博物館で復元されたものを見る事ができます。 車内には間接照明が灯った黄色い車両や、復元した上野駅のホームや自動改札などが展示してあります。 |
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下の絵葉書も同じ地下鉄ですが、《いなり町驛》と記載されているように、上野の隣の稲荷町駅のホームです。 これを見ると、ホームに《御茶 池田園》という広告が見えます。 既に国鉄での駅構内広告は、地下鉄開業前の昭和2年4月に始まっていますし、山手線や中央線ではこの年9月から車内吊り広告も始まっていますので、地下鉄でもホームに広告を設置したと思われます。 尚、上の車内の絵葉書を見る限りでは、車内吊りは始まっていないようです。 |
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こちらは《たはらまち驛》とあるように、浅草の隣の田原町駅です。 こちらにもホーム内に広告が見えますが、隣の《たはらまち》という駅名は左書きです。 まだこの時代は右から文字が書かれていた時代で、上の構内広告も右書きです。 前述の画期的な入場方法や、人気の職員といい、この地下鉄名の左書きも、斬新なものだったのかも知れません。 |
東京地下鉄道 たはらまち驛/絵葉書 |
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上の2枚は地下鉄浅草駅の上に建つ《地下鉄ビル》です。 昭和4年に建てられた地下鉄直営のビルで雷門の横にあったことから、《雷門ビル》とも言われ、東京地下鉄道の出入口をかねています。 左の絵葉書の 表面には
高さは40mで地上6階地下1階(地下は地下鉄出入り口)のこのビルにはエレベーターが完備され、2階3階は禁酒食堂で、4階5階は普通食堂。 そして6階と屋上が四方を展望できるスペースになっており、凌雲閣こと浅草十二階がなくなった以降の浅草のシンボル的意味合いも含まれて建てられた地下鉄直営の食堂ビルです。 事実、川端康成の浅草紅団にも、当時の地下鉄ビルの事が掲載されていますし、絵葉書写真の撮り方からしても、ビルに斜めに入った模様にしても斬新的なビルだったようです。 それまで浅草のシンボルだった凌雲閣(十二階)は、大正12年の関東大震災で壊れ、当時はまだ浅草松屋が建っておらず、(松屋は昭和6年)周りにはこれ以外の高い建物はなく、隅田川や竣工なったばかりの橋々が見渡せ、一方上野を見渡すと松坂屋もみえたそうです。 右の写真でも、屋上に人が立っているのが判りますし、地下鉄ビルよりも低い神谷バーのビルが判ります。 残念ながらこの地下鉄平成18年に解体され、今は新しいビルが建っていますが、現在も新しい雷門ビルが観音通りに面して建っています。 |
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