3-34.昭和初期の絵葉書 地下鉄銀座線 ← ・ → |
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こちらは、昭和2年12月30日に開通した、日本で初めての地下鉄【銀座線】の絵葉書です。 絵葉書でも判るように、現在の銀座線とは違って開通したのは上野駅〜浅草駅間のたった2.2qの距離で、《いなりちよ》と《たはらまち》という途中の駅名も見えます。 「うへの」と「あさくさ」とひらがなの看板ですが、この時代にしては珍しく字が左読みです。 この絵葉書の上野駅入り口は、下の写真のように国鉄の上野駅が新しくなると同時に形が変り、更に現在では場所が変りますが、浅草駅は現在も同じ場所にあります。
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この頃の同じ区間の市電の運賃は7銭に対して、地下鉄は十銭均一という割高な運賃にもかかわらず、物珍しさもあって人々が押し寄せます。 特に営業開始の6時には既に長蛇の列で、上野駅の行列は上野広小路まで続き、2時間程の待ち時間だったようです。 午前中だけでも上野駅からは2万人が乗車し、浅草駅でも1万人もの人々乗車したようで、上野駅の1日の乗降客数は初日だけでも10万人との記録があります。 現在の東京メトロ銀座線上野駅の1日の平均乗降客数は17万8千人となっていますが、ここから比較してもその多さが判ります。 右の絵葉書には開通記念のモニュメントも設置されていますが、入り口と出口に並ぶ乗降客の多さがわかります。 下は銀座線の車両外観ですが、前にも人が多く乗っている様子がわかります。 この銀座線が計画された当初は新橋〜浅草間を一気に開業する予定だったものが、関東大震災の影響で全区間の開通が間に合わず、まずは浅草寺のある浅草と上野という、いわゆる当時東京で一番の繁華街を最初に開通させ、徐々に新橋方面の駅が伸びて行きました。 暮れも押し迫った12月30日という、年末の慌しい中での開業は、東京で一番の賑わいである浅草寺の初詣を考慮して、急ピッチで工事が行なわれての開通と思われます。 因みに、東京地下鉄道(現東京メトロ)が創立したのは大正9年8月29日ですが、当初は上野〜新橋も同時開通の予定でした。 が、大正7年11月の第一次世界大戦が終わり、世界的な恐慌へと変わり、更に大正12年9月の関東大震災の影響で、上野〜浅草間の開通となりました。 |
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乗客の姿もコートやオーバーや、洋服を着ておしゃれなイメージですが、実際は上の写真のように、着物姿が多いようですね。
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この地下鉄が営業を開始した昭和2年の12月に同時にできたのが、右の上野電車庫こと、現在の上野検車区です。 上野駅から程近く、バイク街がある昭和通り沿いの東上野4丁目にありますが、かつてこの一帯は下谷区車坂町といわれていた場所です。 東京メトロの看板の下には線路が見え、遮断機の向こうには車庫らしき建物が見えます。 現在はここでは車両の点検を行ったりするのみですが、開業当時は工場業務と検車区業務を行っており、ここが地下鉄車両の車庫になっていました。 また写真でも判るように、ここは日本で唯一の【地下鉄の踏み切り】がある場所でもあります。 踏切が閉じる事はあまりなく、一時停止の標識もありませんが、それでも車両が通る際には係員が配置に付き、ものものしいゲートが開いて、踏み切りが降りてきます。 下の写真には、奥に通じるトンネルがありますが、これが地下鉄への入り口で、このまま上野駅に通じます。 |
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