3-24.昭和5年・草野球   ・ 

寛永寺境内での野球/昭和5年

野球のベースやボール、ミットなどを前にしての写真が出てきました。
近所の広場での野球をすると言うことは、私達の子供の頃には当たり前だったものの、近頃は見かけることはなくなってしまいましたが、写真は昭和5年の光景です。



バットやボールにグローブもありますが、バットはかなり使われてきた感じがします。
ボールは縫い目がないボールのようですし、ボールが置いてある真ん中のものは、手作りのホームベースですね。
ミットはしっかりした皮の作りのようです。
この当時の子供用バットやボールは55銭前後の値段ですので、少年雑誌と同じ位ですが、グローブなどは皮製の為4円〜9円と子供には、かなり高価なものだったようです。

服装は学生服姿ですが、 さすがにみんなこの時ばかりは下駄ではなくちゃんと革靴を履いているようです。


寛永寺根本中堂前でのキャッチボール/昭和5年
この頃の少年たちの娯楽には何と言っても第一に野球があげられます。

当時はまだプロ野球が発足していませんでしたが、六大学野球を筆頭に、全国中等学校野球大会(現高校野球)や、都市対抗野球等の試合が開催され、子供達にとっては憧れの的だったようです。

特に神宮球場で開催される早慶戦は、今で言うプレミアチケットだったそうです。

伯父も何度か観戦に行ったことがあったそうで、
「まあとにかく人が多く、もの凄い人気だったよ!」
と申していましたが、伯父が撮った写真の中にも神宮での野球の写真もありました。
昭和6年頃・六大学野球】参照

更にこの頃にはアメリカの大リーグも初来日し、ますます野球熱は高まり、近所の子供たちと一緒に、よく野球をしたようです。

上の写真を見た伯父は、
「あ〜これは弟や近所の子供たちと寛永寺で草野球をしていた時の写真だな〜」
と申していました。

古宇田住職にも写真を見ていただいたところ、間違いなく寛永寺境内で、下のキャッチボールは本堂前の石段のところだろうとの事でした。

また現在寛永寺の横に建つ上野中学校は、昭和初期はまだ寛永寺の境内の一部で、今以上に広い境内が広がっていたそうです。

そうしたことから、寛永寺境内や谷中墓地等は、子供たちにとっては格好の野球の場だったそうですが、今、お寺の境内や墓地で野球をして遊ぼうものなら、すぐに叱られる事でしょうね。

左の写真も寛永寺境内でキャッチボールをしている伯父の様子ですが、「さあ!こい!」というようなポーズと目つきが、いかにも腕白っぽいですね。



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