3-19.自宅・地賃領収證 ← ・ → |
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上は、伯父の写真の中に交ざって出てきた、昭和3年当時と昭和14年当時のの【地賃領収證】なるものです。 伯父宅のあった上野桜木界隈は、江戸から明治時代後半までは寛永寺の境内の一部で、その別院等が建っていた場所です。 その後明治時代末から大正時代にかけて、言問通りや不忍通り等の道路の拡張工事や、上野桜木や谷中地区の宅地開発が行われると共に、これらの別院は移転したりしながら、一部が住宅地へと変わって行きましたが、伯父の住んでいた上野桜木近辺は、あくまでも寛永寺の寺社領だったそうです。 その為、伯父の家が建てられた大正初期から、終戦後数年を経るまでは、寛永寺の寺領という事で毎月借地料を寛永寺に払っていたそうです。 もちろん他の近隣の家々も同じで、当時は借地借家等はとても多かったそうです。 当時の自宅は寛永寺の借地だったことから、【寛永寺地所部】という所に地代を払っていた証書ですね。 《平井唯八》とは、伯父の父のことで、私の祖父にあたります。 《一金九圓参拾七銭 壹ケ月地賃》と記載されていますが、昭和3年当時の物価を見ますと、新聞の1ヶ月の契約が1円、ランチが3円15銭程度ですので、現在に換算すると3万円前後でしょうか? また昭和14年には《拾五圓四拾参銭》と大分賃料も上がっています。 領収書の住所を見ますと、当時の住所は上野桜木町40番地となっていますが、【川端康成】が三十代前半の頃の、昭和4年から昭和9年にかけて住んでいたのが、同じ上野桜木町界隈になります。 9年の間に、上野桜木町界隈を四度も引越ししていたようですが、川端康成も借家住まいだったようです。 記録によりますと、最初に住んだのが、上野桜木44番地ですので、伯父の自宅からは目と鼻の先だったようです。 川端康成の日記にも、この最初に住んだことの記載があるようで、『近所の女中や子供たちが、並んで僕の引越しを見ていた。』と書いていますので、もしかして伯父たち兄弟も見ていたのでしょうか? 「確かに近所に住んでいたようだったが、あの辺は有名な人がそこらに、いっぱいいたからな〜」 と伯父も申していましたが、上野桜木には著名な方がけっこう住んでいたようです。 尚、川端康成が【雪国】を発表し、芥川賞や直木賞を受賞したのは、鎌倉へ引越しをした翌昭和10年ですから、この地で大作の案を練っていたのでしょうか?
そしてこちらが昭和8年に交わした、【特約證】で、借地に関しては20年契約となっています。 その後終戦後に寛永寺地所部より賃上げの話と、土地を売却する話があったそうです。 当然の事ながら、賃上げに関しては、近隣住民共々反対したそうですが、土地の購入に関しては、『良い時期かな?』と思って土地を購入したのが、昭和28年頃のようです。 「丁度勤めていた銀行を辞めた後で、退職金があったからな〜今思えば良い時に買ったなぁ〜。」 と伯父も申していました。 |
右は伯父の自宅があった上野桜木界隈の現在の地図と、江戸時代の地図の比較です。 ★印が伯父家が建っていた場所ですが、変わっていないのは【浄名院】のみのようです。 この地図で見ますと、伯父宅のあった場所は、寛永寺別院の、【春性院】というお寺があった事が判ります。 明治時代後半になると、この【春性院】は道路拡張の為、近隣の寺院と共に、この場所から上野公園へ近い倫王殿の近くに移転になりました。 そして寛永寺の地所のまま住宅地となり、上の【地賃領収證】にあるような借地となります。 更に、調べてみましたら、この【春性院】は岐阜県の岩村藩の代々の菩提寺ということが判りました。 岩村藩といえば織田信長の叔母が一時期城主を勤めていた事から、女城主の城として知られ、また岩村城は日本三大山城としても知られています。 そして、実はこの岩村藩があった岐阜県恵那市岩村町は、平成17年に私の童謡の活動の一環で、【童謡コンサート】で伺った事があります。 (岩村での童謡コンサート詳細はこちらからどうぞ) その時はこういった事は何も知りませんでしたが、街中を通る街道は、江戸時代の雰囲気がそのまま残る素敵な所で、ゆっくり楽しみながら散策しました。 それが、こうして私の父の実家のあった場所と関係があったということに、改めて驚きました。 何か不思議な、つながりがあるのかな?と思わず考えてしまいます。 |
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