3-14.昭和5年・逗子海岸 2 ← ・ → |
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こちらは、水着になって海岸でくつろいでいる4人の兄弟と、近所のお友だちですが、後ろのテントは今では見かけない昔風の三角屋根タイプで、とてもハイカラな感じです。 きっと色鮮やかで、海岸では目だったテントだったのでしょうね。 たくさんの人が座っているようですが、右側にあるのは海の家でしょうか?
そしてこちらの写真では、並んでいる後ろの暖簾に《休》という文字が読めます。 暖簾の中に水着で入ってゆく人の姿も見えますので、今で言う【海の家】のようですが、せっかくの記念撮影の前を人が横切っています。 まあ、こうした事は今でもよくある光景ですね。 陽避けの傘をさして、着物姿で歩く女性の姿も見えますが、こうした【海の家】というものも、この頃には海水浴場にはなくてはならない施設だったようですね。 現在も逗子海岸で営業をしている【海の家】には、古くからのお店もありますが、その中でも《わたや》さんは創業80年という【海の家】です。 また逗子には【逗子海岸営業共同組合】という海の家の組合がありますが、この組合も創立60年を超えています。 日本で最初の海水浴場は明治20年に大磯で開かれたと言われていますが、この逗子や葉山でも同じ頃に開かれたという記録があり、明治中頃の新聞にも逗子海岸の海水浴の記事が掲載されています。 その後明治40年頃になると、海水浴人気が高まり沢山の人たちが海に繰出すようになり、海岸沿いの農家や民家は、家の軒先や居間を海水浴客に提供するようになったのが、【海の家】の始まりと言われています。 農家や民家にとっても夏の良い収入となり、その後宿泊を提供したりする形態の【民宿】が確立されていきました。 そして、いつしか写真のような【海の家】が出始め、ますます海水浴は盛んになっていったようです。 上は拡大したものですが、確かに右側には【海の家】が並んでいるのが判ります。 右の暖簾には《中潮さん》?でしょうか? 《やまだ》という文字とだるまの絵も見えます。 伯父達家族にとって、夏になるとこうして皆で海水浴に行く事が恒例だったようで、これ以外にも海の写真が随分あります。 |
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