2-35.大正初期・侍長屋 ← ・ →(昭和へ) |
|||||
上の写真は、先に紹介した大正8年刊行の東京府史跡の中の1枚です。 この建物は霞ヶ関の現在は外務省がある場所にあった筑前福岡藩黒田家上屋敷の侍長屋です。 明治末頃から大正初期に撮影されたと思われますが、福岡藩黒田家の屋敷跡に明治になって外務省が置かれた事から、通称【外務省長屋】と呼ばれていました。 本の解説には
などの記載がありましたが、写真の外務省長屋の造りは《堅瓦張塗家造》で窓がないタイプです。 因みに、れん子窓(武者窓)とは縦格子が入った窓で、興力窓とは横格子が入った窓のことです。 写真を拡大すると、石垣の周りには堀が伸び、右端には立て札も見えます。 きっとこの長屋の解説などが書かれていたと思われます。 上の写真でも判るように、この黒田藩の長屋は長く続く海鼠壁で知られていました。 かつてはこの通りの反対側には安芸広島浅野家の上屋敷も並び、小唄でも『安芸と黒田は不仲ぢゃすまぬ、花のお江戸ぢゃ軒ならび』と唄われていました。 また江戸城の周りには、全国の諸大名の上屋敷があり、この桜田門近くには上杉藩、長門萩藩、彦根藩、備中松山藩など全国の大名屋敷があったことから、こうした侍長屋が多くあったようです。 |
2枚目の写真も侍長屋ですが、こちらは【神田橋内長屋】と呼ばれ、旧一橋家上屋敷の侍長屋です。 造りは下見張塗家造で窓の形状は縦格子の?子窓(れんじまど)・(武者窓)です。 現在の神田橋から一ツ橋の内側一帯がかつての一ツ橋家上屋敷で、明治時代には近衛騎兵連隊が置かれ、今は気象庁や東京消防庁がある所になります。 その中でも神田橋近くにあったことから、【神田橋内長屋】と呼ばれていたようです。 長屋横の塀には江戸時代の屋敷特有の忍び返しが見えます。 進入する者を遮るためのものですが、こうした忍び返しは【1-2.明治39年3月・日本橋小舟町・祖父】の小舟町の斉藤弁之助商店でも見ることができます。 また柱には【元衛町】という表札も見えます。 明治時代に近衛騎兵連隊が置かれたこの地は【元衛町】という町名でした。 ただ、右上の写真をみても判るように、漆喰の壁がところどころ剥がれおり、この時点で保存状態が悪かった事も伺えます。 本には
と記載され、こうした造りが江戸時代の武家屋敷及び侍長屋であったようです。 残念ながらこの本が刊行された4年後の関東大震災で上の両侍屋敷は被災し焼失したようですが、戦前までは霞ヶ関には他の侍屋敷が残っていたようです。 昭和8年には 《霞ヶ関の侍屋敷が永久保存されることになった》 と言う記事事がありましたが、こちらの唯一残った侍長屋も太平洋戦争の空襲によって焼失したものと思われます。 写真によって江戸時代の大名屋敷にはこうした侍長屋があるのが普通だった事が判りますが、この侍長屋の雰囲気を残した建物が、現在も皇居東御苑に残っています。 侍長屋ではありませんが、百人番所という江戸城登城の際の武士をチェックしたという古い史跡で、江戸時代を垣間見る事ができます。 |
大正時代の出来事(元年-3年・4年-8年・9年-11年・12年-15年) |