3-1.昭和2年・皇居二重橋遠足 1927年 (大正時代へ)← ・ → |
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こちらの写真は皇居二重橋の前での記念写真で、顔立ちからしますと8〜9才の小学校三年生頃の写真のようです。 生徒の皆さんは、肩から水筒のようなものを提げ、手に籐のランチボックスらしきものを持っている子供もいます。 更に生徒達の後には、先生らしき方々と一緒に日傘を手にした父兄の姿も見えますので、親子での遠足だったのでしょうか? この頃の皇居は今以上にたいへん神聖な場とされ、皇居の名称よりも【宮城】や【宮城野】と言われていた頃です。 大正天皇が崩御なされて間もない頃で、観光名所としては東京で一番だった場所でもあります。 市電に乗車し皇居の前を通る際はも皇居方面に姿勢を向け、脱帽した上でお辞儀をして通っていたそうで、もしも脱帽しなかった際等は、車掌さんから、『恐れ多くも天皇陛下がおられる宮城野前で・・・』と、小言を言われたそうですので、この時も皆さん神聖な気持ちで訪ねた事と思われます。 子供達の服装は、男の子は皆制服ですが、女の子は洋服や前掛け着用が多いようですが、中には着物姿の女の子も見られます。 また父兄の方々の服装は、先生こそネクタイ姿ですが、洋装の男性はお一人だけで、お母様方はほとんどが着物姿です。 更に若いお母様から年配の方もいらっしゃいますが、髪型もみなさん様々のようです。 台紙には《東京観光協會寫眞部》と記されており、渋谷の住所ですので、もしかして皇居専門の写真館が撮影したものでしょうか? この場所は、現在も皇居を訪れる団体の記念撮影場所となっており、休日ともなると国内外を問わず観光客で賑わいます。
【二重橋】と言いますと、写真手前の橋の事と思いがちですが、この手前の橋の正式名称は【正門石橋】と言い、明治21年に架け変えられた石の橋です。 俗称としては【めがね橋】と言われています。 そして古い写真にもかろうじて写っていますが、【めがね橋】の奥に架かっている橋の事を【二重橋】と言いました。 当時は木製の橋で、構造上の問題から、上下の二段構造となっており、その為に【二重橋】と言われたそうです。 その後昭和39年に現在の鉄橋になり、正式名称は【正門鉄橋】と言います。 が、長く親しまれた【二重橋】と言う名称から、現在はこの二つの橋の事を総称して【二重橋】と言うようになったそうです。 新旧の写真を比較しても、手前の石橋は同じで、橋の上の行灯も一緒です。 変わった部分は、石垣の上の樹木の大きさだけかなと思ったのですが、よく見ますと、確かに奥の橋の形状が変わっており、木製のアーチ形状だったものが、鉄のストレートな橋に変わっていることが判ります。 |
伯父の写真をきっかけに、実際に皇居参観に参り、普段は渡る事の出来ない二重橋にも行って参りました。 右は、正門鉄橋の上から、二重橋の撮影地点を見下ろして撮ったものです。 実際に訪ねてみますと思った以上に高さが有り二つの橋が離れている事がわかります。 下の写真は、古い写真の中程奥にも見えますが、皇居で最も美しい櫓と言われる【伏見櫓】です。 この櫓は徳川家光の時代に、京都の伏見城にあった櫓を、移築したことから、【伏見櫓】と言う名がつきました。 また写真の行灯も古い写真に写っているものと同じようで、細工が細かい大きな行灯です。
右中の写真は、【富士見櫓】と言い、何処から見ても同じ形に見えるという櫓で、確かに、どの角度から見ても綺麗な正方形でした。 この【富士見櫓】や【伏見櫓】等が立つ石垣は、江戸時代から残っている石垣で、先の関東大震災では、櫓こそは一部損壊したものの、石垣はまったく崩れる事はなかったそうです。 因みに皇居内の石垣の一部には【印】が付いた石垣があります。 これは江戸城築城の際、どこの藩が受け持ったという【印】だそうです。 他にも、見事な桜や紅葉等が並ぶ静かな【山下通り】や、石垣が延々と続く【蓮池】等、普段出来ない貴重な皇居参観でした。 |
正門鉄橋から見ためがね橋 富士見櫓 皇居内蓮池/平成19年5月撮影 |
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