2-31.大正14年 茨城県常陸・河原子 ← ・ → |
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これは伯父が小学校1年生の頃の写真で、家族や親戚たちと一緒に茨城県常陸の河原子海岸に、海水浴に行った時のものだそうです。 真ん中の黒い水着を着て直立不動のような感じで立っているのが伯父ですが、他の子供たちの水着を見ても当時の海水浴のファッションが感じられます。 みんな帽子を被り、タオルを巻いたり、ガウンのようなものを羽織っていたということは、この日は相当暑かったのでしょう。 この写真を見た時も、伯父はすぐに 「これは河原子の海岸だ! 確か実家の鹿沼から両毛線でお袋の妹の家族と一緒に行ったものだな〜」 と思い出していました。 とにかく、子供の頃はいろんなところに連れて行ってもらったそうで、とても懐かしそうな表情をしていました。 |
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現在は日立市・河原子海水浴場と言いますが、この海水浴場は《白い砂浜と清い水》と言われ《快水浴場百選》にも選ばれている古くからの人気の海岸で、茨城県でも有数のビーチとして知られています。 ということは、83年前はどれぐらい素晴らしかったのでしょうか・・・ バックの岩肌や、右上の岩の上に見える鳥居からしますと、河原子海岸の【烏帽子岩】の前で撮影されたものではないかと思い、実際に河原子に行き【烏帽子岩】を見て参りました。 左の写真は広い河原子海水浴場ですが、左側の堤防の上にちょっと出ている岩が【烏帽子岩】です。 そして下が、.現在の河原子海岸のシンボルとも言われる【烏帽子岩】ですが、岩の上や下にも鳥居がありました。 この【烏帽子岩】の中腹には【津神社】があり、【大海津見神(おおわだつみのかみ)】が祀られていますが、その歴史は源頼朝の時代までさかのぼり、海上安全や漁業大漁の神様として篤い信仰を得ています。 当時は、この【津神社】の階段の所まで海岸線があり、海岸からお参りをするという、まさにその名の通りの【津神社】だったようです。 が、現在は周りにあった岩は削られ、砂で埋め立てられ、この【烏帽子岩】のみがぽつんと残り、岩には古くからの波の浸食の跡が見られます。 また岩の下には灯篭が見えますが、これは幕末の政治家でもあった水戸家の藤田東湖がここを訪ねた折に建立されたものだそうです。 |
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こちらは古い写真と同じ位置関係と思われる場所から【烏帽子岩】を見た現在の様子です。 岩肌には侵食の跡も見られますが、古い写真のようなゴツゴツした岩は、すっかり姿を消していました。 かつてはこの岩の周りは潮が満ちれば海に囲まれ、その為陸地からは【烏帽子岩】に橋が掛けられていました。 現在も残るその石段は、その橋の名残のようでもあるようです。 また、古い写真の【烏帽子岩】の向こう側には民家が写っていますが、現在も民宿や旅館が並んでいました。 |
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とすると、やはりこれらの写真は伯父の記憶の通りに河原子海岸のようです。 83年も前の思い出をすぐに思い出す伯父にまた驚きです。 場所は同じく【烏帽子岩】近辺と思われますが、縞模様のガウンの女性に抱っこされているのが伯父のようです。 前の写真にも写っていましたが、この時代はバスタオル地のようなガウンが流行っていたのでしょうか? 襟もちゃんと着いており、確かに海岸では日除けにもなり、汗も吸い、今あっても便利ですね。 ところで、遠くで立っている男性の姿はもしかして褌でしょうか・・・!? この河原子は、元々半農半漁の街でしたが、明治時代に日立鉱山や日立製作所が創業されると、河原子には旅館などが建ちはじめます。 現在も明治創業の旅館などが営業を続けているようですが、河原子は次第に海水浴場としても知られるようになり、大正時代にはたくさんの旅館が建ち、旅館街が出来る程賑わっていたそうです。 更に別荘なども建てられ、【烏帽子岩】の【津神社】と共に人気スポットになっていたようです。 そして右が【烏帽子岩】から見た現在の海岸線です。 今では岩もなく、海岸線も沖合いに移って砂浜が広がり、海にはたくさんの防波堤が伸びています。 この日はまだ海開きをしていない6月でしたが、ビーチパラソルを刺し、家族で海遊びをしている人たちや、散歩をしたりする姿が何組か見られ、昔から人気の海岸だった事が伺われます。 |
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