昭和からの贈りもの 第2章 大正時代

 2-27.大正12年・関東大震災 2   ・ 

地震当時の事を、当時5歳だった伯父に聞きましたら、

「その時は確か五歳ので、家にいたらグラグラろ結構揺れた記憶があるなぁ・・・、でも家は平気だったから、あれほど大きな地震とは思わなかったよ・・・ただ火事のために空がオレンジに光ってて怖かった記憶があるなぁ・・・」

とのことでしたが、確かに上野や根岸の界隈は地盤が強い地域だったようで、谷中の五重塔も被害はなかったそうですし、近くの上野動物園も地震や火災の被害は及ばなかったようです。

更に江戸時代の安政地震の時もこの地域の被害は比較的少なかったようで、それを理由に引っ越して来た人もいたそうです。
但し谷中墓地などは、墓石などが倒れ、逆に非難するには危険な地域となっていたそうです。
当時の被災図をみましても、丁度上野の山近辺が、火災地域との分かれ目になっていたようで、広大な緑地と墓地が大火災を防いでくれたとも言えるようです。
もっとも無事だった上野動物園は、火災が鎮火してからは被災者の収容所となり、一時営業が出来なくなっています。



帝都市外鳥瞰図・震災前の東京(拡大)

帝都市外鳥瞰図・震災後の東京(拡大)

上は【帝都震災絵圖】という、関東大震災の発生前と発生後を鳥瞰図にしたもので、長さ2m40cmの2巻の絵巻物です。
あまりにも長く、この頁には収まりませんでしたので、写真をクリックしていただければ別画面が出ます。


東は明治神宮から、西は千住大橋までが、各地の名所や駅名などと一緒に描かれています。
震災前の図では、遠くに富士山を望み、皇居も宮城として描かれ、丸の内のビル郡や日本橋の街並み、そして凌雲閣こと十二階が建つ浅草の様子など、当時の東京の様子が人目で判りますが、震災後はただただ黒っぽい焼け野原が広がり、隅田川を中心に浅草から神田、日本橋、丸の内一帯、そして対岸の本所、深川一帯が被災した事がわかります。


下はその中の上野駅近辺の様子です。
2枚を見比べますと、上野駅から上野松坂屋、不忍池一帯までが完璧なまでに焼き尽くされ、その凄まじさが伝わってきます。


震災前の上野駅近辺

震災後の上野駅近辺

こちらは浅草ですが、浅草寺はかろうじて残っているものの、十二階をはじめ、焼け野原になっています。

震災前の浅草近辺

震災後の浅草近辺

そして今度は日本橋ですが、日本橋川沿いの魚河岸をはじめ、小舟町近辺も軒並み被災しているのが判ります。


震災前の日本橋近辺

震災後の日本橋近辺


そして下の写真は、これら【鳥瞰図二巻】が入っていた桐の箱と、関東大震災が発生した1ヵ月の後に発行された【大正大震災大火災】という本です。


鳥瞰図二巻と大正大震災大火災の本

地震の後、直ぐに記者やカメラマンたちが集まり、『しばらくは雑誌の発行は無理であろう』という状況の中、必死の思いで刊行したというこの本は、まざまざと地震の凄さと、火災の惨さと怖さを伝えてくれる貴重な本で、す。

横山大観によって描かれた表紙で始まるこの本は、震災の被災状況や統計、各地の被害状況の写真などはもちろん、被災した状況や、かろうじて助かった方々の話などが克明に書かれていますが、読んで思わず涙してしまったのが、地震直後に記者が街中を歩いて見たというその様子です。
あまりの凄惨さに私が経験した地震を思い出しましたが、実は平成7年の阪神大震災を宝塚歌劇団在団中に経験しました。

丁度次の舞台の稽古のため、宝塚の寮で就寝中でしたが、ドシンと突き上げるような衝撃と共に目が覚め、その瞬間体が浮き上がり、部屋の中を衣類や荷物が舞っていたのを覚えています。

幸いにも寮は倒壊を免れましたが、もちろん部屋はめちゃくちゃとなり、余震の怖さの中寮を出てヒッチハイクをしながら何とか伊丹空港までたどり着きましたが、その時の街の崩壊にはただただ驚くばかりでした。

横浜の実家に戻って初めて安堵しましたが、あのような怖い体験は二度としたくないものです。

現在神戸市内には、震災当時の様子を残したモニュメントが数多くありますが、右は【神戸港震災メモリアルパーク】です。

震災時の崩れた神戸港がそのまま残っていますが、【大正大震災大火災】の本といい、【鳥瞰図】といい、そして【モニュメント】と言い、自然の姿を後世に伝える事は大切なことだと、今回本を読んで改めて感じました。

尚、この関東大震災が発生した9月1日は、現在は【防災の日】と定められ、毎年各地で地震に備えた防災訓練などが行われています。


神戸港震災メモリアルパーク

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