7-3.昭和17年・学徒出陣   ・ 


 軍隊入営/昭和17年

昭和17年2月に、伯父は最初の学徒出陣として軍隊に入隊しました。
前頁でも述べましたが、本来なら昭和17年3月に東京外国語学校を卒業する予定でした。
が、《大学及び専門学校などの修業を3ヶ月短縮し、軍隊に徴兵する勅令》が発せられ、昭和16年12月に大学を卒業し、徴兵検査を受け、翌年2月には入隊する事になりました。
学徒出陣は昭和18年から始まったと一般的には言われていますが、試験的な学徒出陣は昭和16年末には始まっており、伯父たちはその学徒出陣の最初の面々だったそうです。
そうして入隊した後に撮影されたのが、こちらの写真です。
裏には《昭和十七年二月 東部七部隊》との記載とがありましたので、入隊してすぐに撮影された記念写真と思われます。


昭和18年の学徒動員壮行会を報じる記事/東京朝日新聞
この時の伯父たちの学徒動員の時にはありませんでしたが、昭和18年の学徒動員の際には東條首相や文部省らが出席し盛大な壮行会が神宮外苑競技場にて行われています。
上はその時の様子ですが、記事によりますと、

この朝午前八時、出陣学徒東京帝大以下都下、神奈川、千葉、埼玉縣下七十七校○○名は執銃、帯剣、巻脚絆の武装も颯爽と神宮外苑の落葉を踏んで、それぞれ所定の位置に集結、送る学徒百七校六万五千名は早くも観客席を埋め尽くした。
午前九時二十分、戸山学校軍楽隊の指揮棒一閃、心も躍る観兵式行進曲の音律が湧き上がって『分列に前へツ』の号令が高らかに響いた、大地を踏みしめる波のような歩調が聞こえる、この時会場内十万の聲はひそと静まる、見よ、時計台の下、あの白い清楚な帝大の校旗が秋風を仰いで現れた、纉ぐ剣光帽影『ワァツ』といふ歓声、出陣学徒部隊いまぞ進む、『頭ァー右ッ』眼が一斉に壇上の岡部文部相を仰いだ、
幾十、幾百、幾千の足が進んでくる、この足やがてジャングルを踏み、この脛やがて敵前渡河の水を走るのだ、拍手、拍手、歓声、歓声、十万の眼からみんな涙が流れた、涙を流しながら手を拍ち帽を振った、女子学徒集団には真白なハンケチの波のように、花のように飛んでいる、学徒部隊はいつしか場内に溢れ、剣光はすすき原のやうに輝いた、十時十分分列式は終わる、津波のひいたやうな静けさ、やがて喇叭『君が代』が高らかに響いて。宮城遥拝、君が代奉唱…

等と記されていますが、この様子はNHKラジオ実況中継を行い、後に国民を鼓舞するように映画【学徒出陣】も作られます。
因みに、学徒動員の人数は○○で伏せられていますが、これは昭和12年7月に発せられた、《記事掲載禁止命令権》によるもので、重要な部分は伏字にするということからです。
その為見送る人数は表示されていても、学徒動員の数は発表されていません。

緊張した面持ちの伯父や他の新兵さんなど80名近い兵隊さんが写っています。
そして真ん中にはサーベルを持ち、たすきをかけた指揮官と思われる方や、両隣にも上官らしき方も見えます。
「東部七部隊か・・・これは入隊して間もなくの頃だな〜」
「宮城の脇の青山第四連隊に入営したんだよ」
「乙種幹部候補生として入隊し、教官と一緒に撮ったものだな〜」
と申しておりました。
さすがに軍隊に入ってからは、伯父がカメラを持つ機会が減ったようですが、これからは軍隊の写真がしばらく続く事になります。

後日判明したのですが、上の指揮官は伯父が最初に軍隊に入った近衛歩兵第四連隊 シ隊こと四分一隊の四分一隊長のようです。
そして下の写真に写るのが、 この後の軍隊時代の写真にも度々写る方で、伯父が指導頂いた班長のようです。
更に右下の写真の兵隊さん後ろの背景の枠は、【昭和17年・近衛歩兵第四連隊 2 大島隊】にも写る入り口と同じ形です。
隊は違いますが、この頃の青山の連隊はこうした入り口だった事が判ります。


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