昭和17年付けの横浜正金銀行採用通知書 |
左が昭和17年1月8日付けの採用通知書ですが、これによると《書記》として採用され、月給は60円となっています。
昭和16年当時の物価からしますと、この頃の公務員や銀行員の平均的な初任給のようです。
《頭取席詰ヲ命シ候也》とも記載されていますが、伯父に聞いたとこ、
「重役室付けというもので、単に役職がなかったからだよ。2月には軍隊に入営するのが決まっていたので、軍事関係のものを毎日読んでいたよ・・・」
との事でした。
尚、頭取の名が《大久保利賢》と記載されていますが、薩摩藩出身で、《維新の三傑》と言われた政治家の大久保利通の8男です。
明治36年に東京帝国大学(東大)を卒業後に横浜正金銀行に入社し、昭和11年に第13代の頭取に就任し、翌年昭和18年3月まで頭取職にあったようです。
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現在の横浜正金銀行跡に立つ貨幣博物館(右)と日銀
明治末の日本銀行と横浜正金銀行/国立国会図書館蔵
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改めて調べたところ、横浜正金銀行は、明治12年に設立され昭和21年の終戦後に閉鎖された為替銀行です。
主に外国貿易関連の取引きが多く、大正時代には、世界三大為替銀行の一つとも言われた程の規模となります。 |
日本国内はもとより海外にも多数の支店があったようですが、伯父が通っていたのは東京支店で、日本橋本石町の場所には、現在貨幣博物館が建っています。 |
反対側には日本銀行が並び、他にもいろいろな銀行がこの近辺にありました。 |
もとよりこの地は江戸時代より金座が置かれ、小判などが鋳造され、《本両替町》という町名がついていた所でもあります。
因みに銀を扱っていたのが現在の銀座です。
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左下の写真は明治末の日本銀行と横浜正金銀行日本橋支店の絵葉書です。
左側が日本銀行で、右側の建物が横浜正金銀行日本橋支店ですが、丁度現在の写真と同じ位置関係にあります。
残念ながら手前の堀の上には首都高速の高架があり同じ景観では見る事ができませんが、日本銀行は同じ姿です。
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また右端の正金銀行日本橋支店の下に見えるの小さな木製の橋は一石橋です。
ここには、江戸初期から橋が架かっていたそうですが、この橋が壊れた時に、当時の両替商で北詰橋に居を構えていた後藤庄三郎と南橋詰の呉服商の後藤縫殿助ら両後藤家の補助で再建出来たことから、五斗+五斗=一石ということで、一石橋と言われるようになったそうです。
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こういう歴史のある銀行に入社した伯父ですが、20日間も通勤しないうちに、翌2月には軍隊に入営することになります。 |