6-8.昭和13年頃・筑波山 2 ← ・ → |
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上は前頁の写真と一部同じ袋に入っていたのですが、乗り物の中から撮ったようで、前方には長く伸びる線路も見えます。 場所が筑波という事と、天井が斜めのようですので、これは【筑波山ケーブル】に乗った時の写真のようです。 筑波山ケーブルは関東近郊の相次ぐケーブルカー開業の波に乗り、大正14年に営業を開始した鉄道です。 ハイキングや登山ブームもあって利用者が多かったものの、戦時中の金属類回収令で、不要不急線となり一時廃線となりますが、昭和29年に再開します。 最近の写真にも、ケーブルカー乗り場の看板が見えますが、現在も筑波山にはケーブルカーとロープウェーが運行しています。 写真が撮られた頃は、筑波山神社横からケーブルカーが運行しており、頂上までは9分の行程で、運賃は45銭(往復75銭)だったようです。 現在は片道570円、往復1020円と当時の1300倍になっています。
左上の写真には社殿の屋根が見え、《日本武尊凱旋之御遺跡》という木札や《連歌》の文字が見えますが、これは初めて連歌が読まれたという筑波山男体山近くにある【連歌岳】のようです。 右の写真では、何か橋の上に立っていますが、この橋は女体山本殿横にある【天の浮橋】であることが判りました。 【天の浮橋】と言えば、古事記にも出てくるように、日本の国づくりがなされた橋とも言われていますが、現在はこの橋は渡る事は出来なくなっています。 それにしても、写真で見るこの橋は、安定が悪そうな感じがします・・・。
上は何かの石碑の前のようですが、同じじ筑波山の写真と思って調べてみましたら、この石碑は茨城県出身の詩人、【横瀬夜雨】の歌碑で、亡くなった翌年の昭和10年に筑波山に建立された石碑という事が判りました。 明治生まれの詩人で、その歌や詩は、数多くの童謡を送り出した、野口雨情や北原白秋らに影響を与えたと言われています。 現在も筑波山にありますが、この当時は出来たばかりの筑波山の名所だったのかも知れません。 |
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