昭和からの贈りもの 時代の出来事 |
昭和16年の出来事 1941 ← ・ → |
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◆1月 昭和16年は新体制に明け暮れます。 新体制の正月は家庭の主婦は外出などしないで台所を守るのが良いとされ、年賀状も廃止されますが、前線の将兵への年賀状だけは努めて書くようにとされました。 また門松は質素にし、祝い酒は屠蘇程度にとどめ《暖衣飽食、安逸遊情》に流れないようにするが、こま回し、羽根つき、凧揚げは奨励され、スキーやスケートも心身鍛錬という事から薦められました。 一般生活においても、さまざまな統制がより一層厳しくなってくると同時に、代用品なども次々登場します。 まず1月には米屋の自由営業が廃止されます。 そして国鉄の線路脇では、食糧増産の為にトウモロコシが栽培され、東京市内の公園の花壇にも麦やキャベツなどが植えられ、新聞では日比谷公園ならぬ日比谷農園と称されます。 また第一回日本ダービーが開催された目黒競馬場も広大な芋畑へと変ります。(写真16-1 写真週報より) この他日本橋白木屋では、木や石、紙が素材となった新体制のおもちゃ展が開催されます。 ◆2月 厚生省から《まず歩こう》運動が発表され、電車や市電などに乗らない方針が出されます。 各地では豆抜きの節分となり、東京ではタオルの第一回配給が始まります。 更に一般車のガソリン使用が禁止され、重油の配給制限などもあったことから、隅田川名物の一銭蒸気も姿を消す事になります。 一銭蒸気は明治以来の名物として親しまれていましたが、古い絵葉書にもその様子を見ることが出来ます。(写真16-2) 上野動物園では余剰動物の処分が決定し3頭のヒマラヤグマと1頭のニホンツキノワグマが射殺されます。 これが後の《猛獣処分》に繋がって行くことになります。(昭和8年・上野動物園 2 参照) ◆3月 国民学校令が公布され、6年制の尋常小学校が8年制となり国民学校と称される事になります。 同時に模型飛行機の工作が正式な科目として登場し、ドイツから模型飛行機教育指導者を招いて各地で講演会なども実施されます。 |
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◆4月 東京、大阪、名古屋など6都市で米の配給制度が始まります。 割当は大人一人一日あたり2合3勺とされますが、これは通常の2割減の量です。 隣組組織を使って米穀手帳が配られ、各家庭もこの手帳に沿って配給される事になりますが、左の写真は伯父の家で使われていた【家庭用米穀通帳】で、昭和19年3月1日発行のものです。(写真16-3) 国民学校が始まると同じく、中等学校の新入学生の制服も、男子は国民服に戦闘帽となります。 女子の場合は国防目的として、高学年の体練科に弓道やなぎなたが導入されます。 またこの月に《肉なし日》の通達がなされ、翌5月から毎月8日と28日はカレーやシュウマイなど肉を利用した料理を一切作らず売らない日が設けられました。 但し魚類には適用されない事から、タツノオトシゴやオットセイの肉も販売されるようになり、鯨肉が奨励され、結果鯨テキ定食が大ヒットとなりいます。 こうして人間が《肉なし日》を設けているのだからと、上野動物園の動物のライオンや虎の餌なども、馬肉や兎肉から鯨肉や鰯など魚類に変わって行きます。 |
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◆5月 東京で酒類も切符制となります。 清酒の場合、満25歳以上の男子を対象とし、4.5.6月の3ヶ月間の配給は一人当たり4合平均となり、夏の40日間のビールの配給は各家庭に8本ずつとなります。 この後、衣料品から木炭や食用油、みそ醤油などの家庭用品まで、さまざまなものが配給制度となって行きます。(写真16-4) ◆6月 《備荒動植物》の調査概要が新聞にて発表されます。 備荒食とは、木の芽、野草、淡水魚などで有毒物質を含むものが多く調理に十分注意をする必要があるもので、げんごろうのてんぷら、トンボの佃煮など雑草1000種と動物100種が食料になるとされたものです。 新聞によると、
◆7月 食用以外にも日用品も同じく代用品が増える中、7月には新宿の伊勢丹で《廃品回収代用品展》が開催されます。 人気のあるコーヒーも代用コーヒーが増えてきます。 大豆、さつま芋、オクラ、どんぐりなどコーヒー豆以外のものを煎って粉に挽くものですが、農林省でもこの月に《代用珈琲統制要綱》を発表します。 |
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◆8月 情報局が軍需に必要なフィルムは民間に回せないとして映画の国家管理の声明を出し、これによって10社あった映画会社が3社となり、映画制作数もこれまで30本ほどあったものが、3社で6本に制限されます。 この月の宝塚歌劇雪組のレビューは、《大空の母》が公開されます。 新たに定められた9月20日の《航空の日》に定められた事と、軍の航空思想の普及に協力して演じられたもので、空を守る為出征する夫や子供を送り出す母を描いたもので、これ以外にも花組の【進め軍艦旗】、月組の【海の日本】など宝塚歌劇でも軍事色を多くなって行きます。 ◆9月 1日、国家総動員法に基づいて《金属回収令》が実施されます。 これは職場や家庭であろうと、階段や看板であろうと金属製品は供出せよというもので、これによって代用品がさらに増える事になります。 この時に供出されたものの中に、日本橋三越のライオン像がありますが、何故か溶解を免れ、戦後になって東郷神社に放置されたものを社員が見つけ、現在もその姿を見る事が出来ます。(写真16-5) 昭和6年に華々しく登場したエアガールですが、飛行機に一人でも多くの客を乗せる為と言う事から、15人を全廃します。 同じく昭和6年から連載が始まった少年倶楽部の【のらくろ】ですが、この10月号をもって突然終了します。 一部平和主義を唱える内容が、軍部にとってよろしくないとされ、内務省の役人から『この戦時中に漫画などというふざけたものは掲載を許さん』と圧力があった為、やむなく打ち切りとなりました。 その為最後ののらくろは、たった2ページで、作者の 『のらくろ探検隊はこれでおわわりました。ながい間御愛読下さってありがとうございました。(作者)』 の一言が急な終わりを示しています。(写真16-6) |
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◆10月 この月、学徒動員の為の繰上げ卒業が発表されます。 これは長引く戦局の為の兵員不足を補う為、全国の大学、専門学校などの修業期間を、16年度は3ヶ月短縮し11月1日に卒業する事になります。 写真は昭和16年11月の伯父の大学の卒業時の写真です。(写真16-6) その後12月には臨時徴兵検査が行われる事になりますが、この事は、【昭和17年・横浜正金銀行入社】及び【昭和17年・学徒出陣】にも記載しております。 ◆11月 新たに翌年昭和17年度の卒業繰上げが公布されます。 次年度は更に繰上げが早まり、6ヶ月短縮の9月卒業とされます。 ◆12月 こうして戦時色が濃くなる中、12月8日、日本は真珠湾に奇襲攻撃をし、太平洋戦争に突入します。(写真16-7) 同時にこの日の天気予報を最後に、新聞やラジオでの天気予報が中断されます。 これは防空対策上から天候が機密扱いとなり報道禁止になったものですが、この後の天気予報の中断は、戦後の昭和20年8月22日まで続く事になります。 12月16日には世界最大級の戦艦【大和】が竣工します。 足掛け7年の歳月で完成し、連合艦隊の旗艦となりますが、その威力を発揮する機会が無いまま、3年半後には九州沖に沈む事になります。 写真は呉海軍基地で最終の装備中の大和で、9月撮影のものです。(写真16-7) 戦争突入と同時に、米映画の上映が中止され、昭和2年から送られてきた青い眼の人形も、各地の小学校では焼かれたりしてしまいます。 また開戦翌日の12月9日には童謡の【たきび】がNHKラジオの《うたのおけいこ》で放送されますが、 ・開戦直後に何事か! ・敵機の目標となる ・物資不足の時代、落ち葉も燃料になる などの事から軍部から放送禁止とされ、2回しか放送されず、再び放送されるのは終戦後の昭和24年です。 こうした戦時色が濃く、軍隊の歌が多くなりつつなる中で、2月には国民学校初等科(1年生)の音楽の教科書【ウタノホン 上】が発表され、【うみ】や【ほたる来い】等が掲載されます。 また3月には同じく初等科(2年生)の教科書【うたのほん 下】が発表され、【たなばたさま】や【花火】等が新しく発表されます。 |
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