4-54.昭和8年・上野不忍池 ← ・ → |
||
ボートに乗っているのは、前頁科学博物館前の写真と同じメンバーのようですので同じ日に撮影したようです。 とすると、博物館の近くの写真では・・・と思って調べましたが、意外と場所の特定が難しい一枚でした。 |
||
伯父も 「これは不忍池のボート乗り場だと思うな〜」 とまでは判るものの、後ろの建物が何なのか判りませんでした。 右側の建物は、最初東京国立博物館内の表慶館と思いましたが、これほど不忍池には近くはありませんし、古い地図を見ても表慶館の近くに池などはありませんでした。 第一、よく見ますと屋根の高さや形も微妙に違うようです。 また、不忍池近辺を見渡したところ、にこうした光景や、この位置関係の池や建物は見当たりません。 左の建物は何の建物?と思って昭和から大正時代の地図を見ましたら、どうやら現在の東京大学付属病院の建物らしいことが判りました。 が、やはり右の建築物はなかなか判りませんでした。 そうしてさまざまな本や資料を引っ張り出して調べるうちに、これは上野で開催された先の萬国婦人子供博覧会の会場跡という事が判りました。 【昭和8年・萬国婦人子供博覧会5・絵葉書】に掲載の絵葉書にも載っていましたし、大正11年に開催された【平和記念東京博覧会】の絵葉書にもと同じような建物を見つけました。 屋根の形も同じ丸い形で、この時の平和記念東京博覧会では【外国館】として公開された建物のようです。 更に、この位置は現在上野動物園の西園になっていることも判明しました。 |
|
この博覧会の会場について、更に調べていくうちに、明治四十年の【東京勧業博覧会】では、この地に【外国製品館】が建っており、その後、その会場は永久保存が決定したという記述がありました。 ただ、下町風俗資料館で古い資料を拝見しながら、職員の方のお話を伺いましたら、当時は全国各地で博覧会が開催されており、いわゆる【博覧会屋】と呼ばれる会社が、こうした博覧会の会場設営を一手に引き受けていたそうで、明治期の【外国製品館】と大正期の【外国館】は、所々微妙に違う事も判りました。
尚、上は【東京大正博覧会】の会場案内図ですが、不忍池の上には【外国館】という建物がある事がわかります。 こうした事から、この池之端の【博覧会常設会場】は、一旦永久保存が決まったものの、博覧会が開催される度に少しずつ外観を変えて公開され続けてきたようです。 ただ実際には永久保存とはならなかったようです・・・ 因みに昭和に入ってから上野で開催された博覧会は、
などがあり、昭和8年には先の【昭和8年・萬国婦人子供博覧会】が開催されました。 その後も昭和9年、11年、15年と開催されますが、昭和17年の「戦時工業総力博覧会」を最後に、上野での博覧会は開催される事はなくなります。 そして、【博覧会常設会場】としてあった建物や敷地は、先の戦災を境に上野動物園の敷地となり、昭和24年以降は、上野恩賜動物園西園として公開されてゆく事となります。 上は現在の上野公園の案内ですが、古い写真が撮られたのは、矢印の地点と思われます。 この場所は現在は上野動物園西園となっており、立ち入る事が出来ない場所ですが、ここから東京大学付属病院方面を撮ったもので、右側に博覧会の永久保存会場も写っていたようです。 |
昭和の出来事(昭和6年・昭和7年・昭和8年) |