4-49.昭和8年・鹿沼 東武鉄道 ← ・ → |
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「これは鹿沼に行った時に撮ったの東武電車じゃないかな〜」 と申していましたが、写真裏には昭和8年の記載がありました。 小高い丘をたった一両の電車が走っていますが、見るからにのどかな昭和初期の原風景といった感じがしますね。 車両の古さが時代を物語っていますが、立っている電柱の形状も今とは違い、また電線の数もたくさんあるように思われます。 大正末から昭和初期にかけて製造された電車に似ていますが、似たような電車が東武博物館にも展示されているようです。 東武電鉄は早くから電車による営業を行い、全国に先駆けて100km以上の電車運行をしていたようです。 因みに、昭和初期は100km以上の路線は蒸気機関車によって運行されていました。 |
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こちらには真っ黒に日焼けした弟が写っていますが、同じ鹿沼の風景のようで、中ほどの小高い部分に線路が敷かれているのが見えます。 鹿沼は、当時国鉄と東武線が通っておりましたが、国鉄の鹿沼駅は歴史は古く、明治23年には開業しています。 右下が現在の鹿沼駅ですが、この駅前の1本道を下ると、黒川になりますが、この黒川は【昭和10年・鹿沼 黒川】にも記載しております。 |
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一方東武鉄道も歴史は古く、明治32年には運行を開始し、その後佐野鉄道や太田鉄道等近隣の鉄道会社と合併をしながら路線を伸ばし、この2年前の昭和6年には、念願の浅草雷門駅が完成します。 それまでは、隅田川の手前の浅草駅(現業平橋駅)が東武鉄道の発着駅でしたが、隅田川を超え1qほど路線が延び、雷門近くまで開通したことによって、益々浅草は賑わって行ったようです。 因みに、当時は浅草雷門駅と業平橋駅の間に、隅田公園駅という駅がありました。 戦時中になって【不要不急駅】の対象となり、そのまま休止駅となり、空襲によってホームも焼失していますが、この駅の様子は【昭和7年頃・枕橋】にも掲載しております。 鹿沼は祖母の実家だった関係で、度々訪れていたようですが、東武線の浅草駅乗り入れによって、益々近くなって行ったようです。 |
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昭和の出来事(昭和6年・昭和7年・昭和8年) |