4-19.昭和7年頃・枕橋 ← ・ → |
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こちらの写真もあまり保存状態が良くありませんが、都内の何処かの橋を撮ったようで、伯父も何処の橋か思い出せないようでしたので、、この写真を元に調べてみました。 |
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まず橋の向こう側には電車が走っているのが見えますが、比較的川幅も広くはなく、丁度舟が通れる程の高さです。 都内でこれくらいの幅の川と平行して鉄道が走り、そこに橋が交差している地点は少なく、場所も限られているのでは? と思って地図等で探しましたら、神田川と日本橋川に架かる、【昌平橋】がそれらしいと見当がつきました。 そして実際に行って撮ったのが右の写真ですが、確かに川幅といい、橋の上の鉄橋といい当時の面影を残しているようです。 実際に上野からも徒歩で動ける範囲内ですし、上の写真は【昌平橋】に間違いないと思っていました。 |
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が、そのうち、 『この写真は昌平橋ではなく、東武線と交差する【枕橋】のはず・・・』 とある方が教えてくれました。 更に 『当時の国鉄には写真に写っているようなアーチは無いはずだし、この写真の右奥は駅のようだな・・・』 との事でしたので、早速行ってみたのが、左下の写真です。 確かにどちらの橋も川幅や橋の形といい、陸橋の位置関係等も似てはいますが、陸橋の親柱や、アーチを見ますと、間違いなく【枕橋】のようでした。 写真の雰囲気が前頁の【浅草松屋】と似ておりましたので、きっと新しく出来た松屋デパートを撮影したついでに、この枕橋まで来て写真を撮ったのだと思われます。 |
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この【枕橋】は隅田川に注ぐ現・北十間川に架かる橋ですが、江戸時代はこの川は源森川と呼ばれ、この橋も【源森橋】という橋でした。 池波正太郎作の【鬼平犯科帳】にもこの【源森橋】が登場しますが、江戸時代はこの川が本所の端でもあったようで、この橋を渡ると、そこはうっそうとした森が広がっていたようです。 【源森橋】という名があったにもかかわらず【枕橋】と言われるようになったのは江戸時代の事のようです。 丁度この近くの水戸屋敷に注ぐ小さい川にも【新小梅橋】という橋が架かっており、【源さん】と【お新さん】が夫婦そろって枕を並べている様子から江戸っ子は【枕橋】と呼んだそうです。 そうなると、元々あった【源森橋】が可愛そうとなったことから、ひとつ上流の名無しの橋が【源森橋】と言われるようになったという、なんとも江戸っ子らしい事ですね。 また昭和初期までは、ここから、【山の宿の渡し】という渡し舟もあったそうで、その碑も残っています。 江戸時代中頃には、この【山の宿の渡し】の近くに既に吾妻橋が架かってはいましたが、当時は橋を渡るのに通行料を徴収していた事と、浅草寺の参拝客が多かったことから、この【渡し】の利用者も多かったそうです。
さて、古い写真をみますと、陸橋の先には駅らしきものが見えますが、これは浅草に東武線が乗り入れた際に出来、その後昭和18年に【不要不急駅】と指定されそのまま廃駅となった東武線【隅田公園駅】です。 尚、前頁記載のように、浅草松屋の屋上から【航空艇】というゴンドラで隅田川を越えて結ぼうとしたのが、この【墨田公園駅】ということになります。 そして枕橋の上流を見ると、そこには隅田川へと注ぐ水門がありました。 水門の手前には屋形船が並んでいましたが、かつても小さな屋形船が並んでいたのでしょう。 |
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現在の枕橋を見に行った際に、ステテコにカンカン帽をかぶり、リアカーを引いた自転車に出会いましたが、昭和初期はこれが当たり前だったのでしょう! まさにタイムスリップしたような感じでした。 |
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