6-44.昭和16年・一ツ橋 4 ← ・ → |
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この一ツ橋の名は、徳川家康が江戸城に入府した頃、江戸城外の平川に丸太の一本橋が架けられいたそうです。 その後平川が堀に整備されますが、その頃から橋が一ツ橋と呼ばれていたそうです。 その後、寛永年間に入り、江戸城の守りとしての三十六見附(見張り番所)の一つである一ツ橋御門が設けられ、その際に見附としての一ツ橋が架けられますが、江戸時代のの古地図を見ても、一ツ橋の名が記されています。 また近くには将軍が船で江戸城を出入りする際の【御上がり場】なども設けられていたそうですが、明治維新後の廃藩置県によってこの御門も取り壊されてしまいます。 八代将軍徳川吉宗公の頃になって、新たに徳川御三卿が設けられますが、その御三卿の一つが一橋徳川家です。 これは吉宗公の四子宗尹が、この地に屋敷を構えた事が始まりと言われており、現在も一ツ橋近くには、【一橋徳川家屋敷跡】の碑と立て札が立っています。
上の古地図にもこの一ツ橋御門が描かれているのが判りますが、明治6年には廃藩置県によって一ツ橋御門は取り壊されます。 その当時の名残りとなる石垣が、現在も首都高速道路高架の下にかろうじて見ることが出来ます。 またこの日本橋川の川沿いの皇居側の壁を見ると、江戸時代に造られた石垣が延々と並んでいる事が判り、ちょっとした歴史を感じる場所でもあります。
こうして大正12年の関東大震災で被災した後に、新たに架けられたのが現在の一ツ橋ということになります。 と言う事は、橋としての歴史は400年以上も前からになり、現在の橋も架けられてから80年以上の歳月が経っていることになります。 また一つ上流の雉橋にも雉橋御門がありましたが、明治時代に撤去され、その後震災で被災しましたが、一ツ橋同様に大正14年に震災復興事業で架けられた橋です。 この一ツ橋の近くの内堀に架かるのが、江戸城の大奥の通用門であり、御三卿の登城門だった平川門へと続く平川橋です。 架橋は慶長19年(1614)ですが、江戸開府の前の大田道灌が江戸城を築城した頃から平川という川が流れ、その先は平川村と言われていた事から平川橋と言われたそうですが、現在は綺麗なアーチを描く木の橋が、皇居東御苑へと迎えてくれます。 現在の橋は昭和63年に石の橋脚と鉄骨の桁で改架された檜の橋ですが、欄干には江戸城の名残りである擬宝珠(ぎぼし)が10個程用いられており、古いものでは慶長19年や寛永元年など400年ほど前のものも使われています。 慶長19年(1614)と言うと2代将軍徳川秀忠公の頃ですが、元々は二重橋に用いられていたものが、明治時代に鉄橋になった事でこの平川橋に用いられたようです。
上がそうですが、左は《寛永元年八月吉日 大工 長谷川越後守》と銘が掘られ、右は《慶長拾九年 甲虎八月吉日 大工 椎名伊予》と読む事が出来ます。
現在は皇居東御苑の入り口としても知られていますが、第1の平川門(高麗門)を入ると重厚な第2の平川門(渡櫓門・わたりやぐらもん)があります。 尚、第2の門の横には小さな門がありますが、これは不浄門という、江戸城内で死亡した人や罪人を外に出す為の門です。 浅野内匠頭や大奥絵島事件の絵島もこの門から出されたと言います。 そしてこの門を入ると、江戸城大奥から三の丸へと続きますが、現在は皇居東御苑として公開され、この先には江戸城天守閣跡などが現れます。
一ツ橋は、東京都内の中で、知っているようで知らない空間への入り口でもありました。 |
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