5-40.上野近辺の街 2   ・ 

伯父の写真にも数多く写っている上野や谷中界隈ですが、実は全国で最もと言って良いくらい商店街や横丁、問屋街が多い街でもあります。
では、前頁【仏壇通り】や【かっぱ橋道具街】、【アメヤ横丁】以外を紹介します。
上野・御徒町駅近辺
【上野宝石問屋街】

上野駅から御徒町駅へ続く山手線沿線にはアメ横がありますが、アメ横の先にはたくさんの宝石店や加工店があります。
特に御徒町駅近辺に密集していますが、旧町名は長者町とも言い、江戸時代の明暦の大火以降に寺社が上野に移ってくると同時に、宮大工や金銀細工の職人が集まって来た事に由来すると言われています。
現在は2000軒を越す店舗があるとも言われていますが、この問屋街も日本一の規模です。

因みに御徒町という名は、江戸時代に幕府や将軍の護衛を担う徒歩の武士の組屋敷が多くあった事からですが、町名としては現在は残っていません。

【上野コリアンタウン(キムチ横丁)】

上野駅と御徒町駅から程近く、昭和通りを超えた一角に、キムチやお肉、韓国の食材を扱う店や焼肉店等が20数軒程並んでいる通りがあります。

キムチ横丁とも言われますが、戦後に《上野親善マーケット》として栄えたという、60年の歴史のコリアンタウンです。
焼肉店はもちろん、キムチ専門店や内臓専門店などさまざまなおいしい食材が並び、雑誌やテレビなどでもよく取り上げられています。
個人的にもここのキムチは大好きで、よく買いに行っています。


【パチンコ問屋街】 

コリアンタウンの先には、パチンコ機器のメーカーや問屋がたくさん並んでいます。
新製品と思われるパチンコの台が展示され、中ではよく商談されているようです。


【佐竹商店街】

コリアンタウンから更に東に進んだ所にあるのが佐竹商店街ですが、元々秋田の藩主、佐竹家の上屋敷があった事からこの名が付いています。
明治中頃に民間に払い下げられ、原っぱだったところに、次第に寄席や見世物小屋、屋台などが次第に集ってきたのが、この商店街の最初です。
当時、この近辺に住んでいた彫刻家の高村光雲が中心となって、更に珍しいものを・・・として作ったのが、木材や竹で作った大仏様だったそうです。
奈良東大寺の大仏様に匹敵する大きさで、中にも入れて展望も良く、また上野からも良く見え、《佐竹原の大仏》として名物だったそうです。
その後、今で言う台風がこの一帯を襲い、見世物小屋などは跡形も無く吹き飛んだ中、大仏様だけは、骨組みなどしっかり残っていたそうです。
そして次第に民家が建つようになり、商店街が出来ていったという歴史のある商店街です。


【上野バイク街】

上野駅から入谷方面へと続く昭和通り沿いには、たくさんのバイク関係の店が並んでいます。
戦後になって駅に近い事から、次第にバイク店が増えていき、現在のようなバイク街となったようですが、国産や海外のバイクをはじめ、バイクのパーツやウエアーなどを扱うお店が集中しています。

現在も週末になると、バイクを求める人たちで、賑わいますが、そんなバイク街も、大手バイク店が店を閉め、少しずつ昔の面影がなくなってくる面もあるようです。



【めったに降りない踏み切り】

上野バイク街の近くには、《開かずの踏み切り》とは逆の、《めったに降りない踏み切り》があります。

上野に住んで10数年ですが、この踏切が降りているのを見たのは、今まで3回だけです。
というのもこの踏み切りは地下鉄銀座線の上野検車区へ繋がる踏み切りで、営業路線ではなく、点検時しか電車が通らない為です。
とは言っても踏切には間違いなく、また地下鉄で唯一の踏み切りでもあります。

尚、写真でもわかるように、道路上はレールが出ていませんが、この上は惰性で電車が進むと言う事です。


蔵前・浅草橋方面
【おかず横丁】

鳥越神社の近くの狭い通りで、テレビの取材でも時々取り上げられるのが台東区鳥越にある《おかず横丁》です。

おかず横丁の始まりは関東大震災前と言われています。
その頃は数件の商店があった程度でしたが、近辺に少しずつ町工場が増えていきました。
こうした町工場は家族ぐるみでの作業の為、ご飯だけ炊いておかずは買ってくるという家々が多くなり、次第にお惣菜のお店が多くなり、次第におかず横丁として広がった通りです。

因みにこの一帯の鳥越という地名ですが、江戸時代前から鳥越村と称されていました。
かつてこの辺は小山だったものが、江戸時代初期に隅田河岸の埋め立て用に小山が削られ、残った跡地は元鳥越町と称され、町屋が形成されていったと言われている地です。

現在は最盛期のような店舗数ではありませんが、それでも古くからのお店がお惣菜などを売っています。



【浅草橋問屋街】

浅草橋から蔵前にかけての広い江戸通り沿いには、さまざまな種類の問屋が並んでいます。

人形問屋、おもちゃ問屋、花火問屋、装飾問屋、革製品問屋、アクセサリー問屋、ホビー用品、事務用品、など数多くの問屋や商店がひしめきあっていて、いつも人通りがあります。

江戸時代は、奥州街道へ通じる大事な道であり、江戸三十六見付のひとつである、浅草見付がありました。
また浅草寺への参詣道でもあり、更に神田川という航路があったことから、古くから発展し、人形問屋や茶店などが並ぶ賑わいのある通りであったと言われています。

現在もある人形店の中には、300年近い歴史のお店や、江戸時代からの佃煮屋などもありますが、航路として主要な場所で船宿も多かった事から、現在も8軒程の屋形船が営業しています。



浅草方面
【仲見世通り】

言わずと知れた江戸時代から続く通りで、日本で最も古い商店街のひとつとも言われています。
浅草雷門から、宝蔵門、観音堂へと続く250mの商店街で90軒程のお店が軒を連ねています。

江戸時代初期に、浅草寺の参道上で営業が許可された事が始まりで、玩具やみやげ物、茶店がの小屋が並んだような通りだったと言われています。
明治になってからはしゃれたレンガの建物に変わったものの大正12年の関東大震災で被災し、その後現在のような仲見世になりました。

いつ行ってもこの通りは国内外の観光客で賑わっていて、また数々のお披露目るメインストリートです。

【花川戸靴問屋街】

隅田川沿いの浅草松屋前一帯は、江戸初期より花川戸と呼ばれていた町です。

奥州街道の入り口であり、浅草寺もあったことから、旅には必須の草履が売られていたようで、それが少しずつ軒を連ね、大正時代には問屋街が誕生しています。
その為か、雪駄や草履、下駄やサンダルなどが今でも多く売られています。
かつての町並みは変わり、ビル街になっていますが、問屋街は健在です。

【初音小路】

藤棚の下に続くという珍しい飲食店街ですが、昭和から大正の時代を感じさせてくれる飲食店が残っている、レトロ感が漂う飲食街です。

これ以外にも浅草界隈には横丁や、商店街がたくさんあります。
【すしや通り】・【新仲見世】・【浅草焼肉屋街】・【オレンジ通り】・【観音通り】・【ひさご通り商店街】・【千束通り商店街】・【浅草皮製品街】・【山谷宿街】など多くの通りや横丁、問屋街がありますが、山谷の宿街はかつては日雇い労働者の宿としてあったものが、今では若者や外国人のバックパッカーたちが利用する宿としても知られてきています。

谷中方面
【よみせ通り】

台東区と文京区の境界となる通りが《よみせ通り》です。
その昔は現在の北区滝野川から不忍池へと続く藍染川が注いでいましたが、昭和初期にはいってこの藍染川が暗渠となり、そこに夜店が集まりだし、次第に商店街になったという通りです。

昭和初期などは、行き交う人同士で肩が触れ合うほどの賑わいを見せていた通りですが、現在も谷中散策の方々の散歩道になっているようです。

【谷中ぎんざ通り】

よみせ通りから「ゆうやけだんだん」という石段までの狭い通りに、70軒程の商店がひしめき合っています。
お惣菜のお店も多く、散歩をしていると、あちらこちらからいい香りが漂ってきます。

ひと昔前は、商店街全体が寂れつつあったのですが、様々なイベントを通して商店街の活性化がなされ、NHKの朝のテレビ小説の舞台にもなっり、全国の商店街の方々が視察に訪れるなど、今や東京を代表する商店街の一つにもなりました。

よみせ通りと同様に、谷中散策の方々の姿も多く、また外国人の姿も良く見かける通りです。

谷中といえば【猫】というように、商店街にも猫の置物が多く見ることが出来ます。

←BACK ・ NEXT→

昭和の出来事(昭和9年昭和10年昭和11年昭和12年

昭和からの贈りものTOPへ