5-29.昭和10年・寛永寺幼稚園   ・ 


寛永寺幼稚園前/昭和10年

こちらは、寛永寺境内にある【寛永寺幼稚園】の門の前で撮った、四男の伯父と五男の父です。
四男の伯父の横には自転車が見えますが、大きさからしても子供用の自転車のようです。

昭和10年といえば、大学卒の銀行員初任給が70円前後で、自転車の価格は50円〜200円だった頃です。
現在で換算すると(2012年)大学卒銀行員平均初任給が18万前後ですので、この当時の自転車は現在で換算すると15万〜50万円ということになります。
更に、自転車には税金が掛けられていた時代ですから、こうした子供用自転車はとても珍しいものだったと思われます。

伯父たち兄弟は、皆根岸幼稚園に通っていましたが、寛永寺は家から近い事もあって、たまたま寛永寺境内で遊んでいる時に、幼稚園の前で撮影したようです。

幼稚園の真ん中の柱の部分が入り口で、右側建物はお部屋で、左側が講堂です。
園庭にはブランコなどの遊戯具も幾つかあるのが判りますが、下が現在の寛永寺幼稚園です。


平成19年の寛永寺幼稚園

そして下の写真は平成12年に娘が寛永寺幼稚園に入園した時のもので、私の横は上の写真にも写っている五男の父です。

この寛永寺幼稚園の園長先生は代々寛永寺子院の住職さんが勤めていらっしゃり、今回の古い街並みや寛永寺の事も、当時の園長先生であった、林光院の古宇田住職にいろいろと伺いました。
住職は上野桜木の生まれという事で、上野桜木界隈の事は色々と御存知のようで、古い写真も懐かしがってご覧頂きましたが、以前寛永寺幼稚園の保護者のために、一般公開していない墓所や葵の間等を案内して頂きましたのも、古宇田住職で、娘がこの幼稚園に通っていたからです。

平成12年の寛永寺幼稚園前と園庭の桜

この幼稚園も、昔と比べますと木製の門も今や鉄門となり、塀も変わりましたが、建物の造りや入り口の柱などは昔のままの姿です。
園の外装等は綺麗になっていますが、中のお遊戯室や講堂等は古いままの木の温もりがたっぷりです。

一番上の古い写真の右側にちょっと枝が写っていますが、この枝も70年後には上の写真のような立派な桜に育ち、入園式の時期は、綺麗な桜が園児たちを迎えてくれます。




上の写真は寛永寺幼稚園の前に立つ石灯籠です。
正確には寛永寺根本中堂の両脇に立つ石灯籠という事になりますが、寛永寺幼稚園は寛永寺境内にあります。

伯父と四男が写っていますが、服装や髪などからしますと、上の写真と同じ日に撮ったものかも知れません。

石灯籠は、後ろの根本中堂と比べますと、70年前と同じ位置に建っているようです。
としますと、明治維新の際、寛永寺が上野から現在の場所に移されてから、ずーっと同じ場所に立つ石灯籠かもしれません。


寛永寺境内には、こうした灯籠が数多くありますが、これらの石灯籠も何気ない割りには建立が古く、灯篭には寛延4年(1751)6月20日奉納と記されています。

灯篭には朱色の葵の御紋が描かれており、250年を経てもその赤味は残っていますが、奉納された寛延4年は、八代将軍徳川吉宗が既に隠居をし、九代徳川家重の時代です。

この御紋は歴代の将軍によって微妙に形が変わっていますが、石灯篭に彫られた形からしますと、徳川吉宗公の御紋に似ています。
と言う事は、吉宗公に寄進されたのかも知れません。
そういえば、吉宗公の墓所はこの寛永寺にあり、家重公は芝の増上寺です。


ところで何故か6基の石灯籠全てに、彫られた文字を削り潰した跡があります。

献上した相手の名でしょうか?
または献上した人の名でしょうか?
削らなければならない何事かがあったのでしょうが、明治維新の際に削られたのでしょうか?
ちょっとした謎ですね。

それにしても、古い写真に写る伯父の服装は学生服ですが、足元は雪駄です。
最近まで、伯父は普段に雪駄を履いていましたので、この時も普段着のまま寛永寺に弟達と遊びに行って写真を撮っていたのでしょうね。


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