5-16.昭和10年 竹岡海水浴場 3 ← ・ → |
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この写真も竹岡海水浴場の写真と一緒に出てきたネガですが、狭い路地を子供たちが列をなして歩いています。 大人の人たちが、子供たちの整理をしている様子も見えますが、中には旗を持った女性の姿や、おそろいの上着や帽子か手ぬぐいをしている子供たちが多数見えます。 また足元は一様に下駄のようです。 |
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服装からして海へ向かっているのでは? と思えますが、そうであれば竹岡海水浴場近辺の場所かもしれないと思い、最初は浜の漁師さんや農家の方々に写真を見て頂きました。 そして右側の塀や垣根を見て、 「これだけ立派な石垣はそうなかったな〜」 とおっしゃるものの、何処の写真か場所は判りませんでした。 次に先ほどの金物やさんに、《せめて場所だけでも判ったら》 と思い写真を見て頂きましたら、ちょっと写真を見ながら、 『あら!この屋根の感じといい、塀といい、これは家の前だわ!』 と判り、上の写真は、金物屋さんの向かいに建っていた家だった事が判りました。
上がその同じ場所の写真ですが、茅葺屋根の家や塀や垣根などは姿を消し、 まさか前の家とは思えませんでしたが、毎日見ていたから覚えていらっしゃったようです。 そう思ってみると、確かに細い路地などはそのままでした。 また浜の漁師さんが『立派な・・・』ととおっしゃっていたように、右側の塀の所は、軍関係の偉い方が住む、たいそう大きなお屋敷だったそうです。 戦後になり敷地は寄付なさり、現在は市の保育園と消防施設の建物になっていますが、路地の奥には昔のような石垣が残っていました。 つまり子供たちが横断している通りが現在の国道127号線となります。 |
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今度の写真は、細い一本道の向こうから、大勢の人たちが歩いている様子が見えますが、それもかなりの人数です。 あまりの人の多さに、何かの催しがあったのかどうか伯父に聞きましたら、 「夏休だったからな〜丁度汽車かバスが着いてみんなぞろぞろやって来たのを撮ったのかなぁ・・・。」 との事でよくは覚えていないとのことでした。 良く見ますと上の写真の続きのように見えます。 とすると、 『夏休みを利用した臨海学校かも?』 『東京から汽車でやってきたのかしら?』 と思い、竹岡に行った際に、写真と景色を見比べていましたら、同じような山が先程の金物屋さんの裏手に見えました。(写真右) 更に金物屋さんの横にも細い道が通っており、地元のおばあさんにも伺いましたら、写真の一本道はこの道ということがわかりました。 現在は細い道は途中で切れていましたが、かつてこの先に駅があり、そこから歩いて来たのかも?と思ったのですが、竹岡駅はこれよりもずっと右ですし、バスならもっと海岸近くに止まるはずです。 更にバスや汽車で着たにしては、服装が軽装すぎます。 いろいろ考え、竹岡を探しているうちに、この細い路地の向こうには竹岡小学校がある事が判りました。 明治30年創立の歴史ある小学校で、この頃は、竹岡村立尋常高等小学校と言っていたようです。 そして学校にも伺いましたら、これは学校の行事で先生たちが引率のもと、竹岡海水浴場に行ったのでは?ということが判りました。 写真は家の2階から撮影しているようですが、やはりこの時は【川口金物屋】さんを貸家としてお借りし、その2階から子供たちの行列を、 『たくさんの人たちで何だろう?』 と思って写真を撮ったのでしょう! これで、またひとつ古い写真から紐解けました。 |
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もう1枚不明だった写真ですが、上記からしますと、この頁上の子供たちが進んで行った小道と同じ場所です。 塀や垣根も同じようですし、また、奥に見える家屋は、前述『かねどん』こと現在の【川口金物店】のお隣の家です。 この間の道が、上の写真の行列の道で、真っ直ぐ進むと、竹岡尋常小学校へと繋がっていたようです。 それにしても、精一杯のポーズが可愛いですね。 |
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