5-13.昭和10年7月・鬼怒川 川治 ← ・ → |
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写真のネガには【10.7.23 左キヌ川ホテル鬼怒川】と記されています。 としますと、栃木県の有名な温泉地である鬼怒川温泉の事ですが、位置関係や川の景観からしますと。現在も鬼怒川沿いに建つ【鬼怒川温泉ホテル】とのことだと思われます。
「この時はおじいさんと、家族みんなで電車で行った覚えがあるな〜。そうそう!帰りに母親の実家の鹿沼に立ち寄った!」 と思い出してくれましたが、昭和6年には東武線が浅草まで乗り入れし、浅草から鬼怒川温泉駅まで2時間37分で結ばれました。 鬼怒川や川治など、裏日光として注目されつつある時期でしたので、湯治客や観光客が多かった頃だと思われます。 因みに、日光線(現JR)の場合は上野駅から今市駅まで汽車で3時間、準急で2時間14分。 更にそこからバスに乗り換えてから30分以上かかっていましたので、アクセス時間も大分短くなったようです。 元々【鬼怒川温泉】は300年以上も前に発見され《滝温泉》と言われていました。 当初は日光参拝の大名や僧侶しか入れない、高貴な温泉とされていましたが、明治に入って一般に開放されると、更に開発され近くに新しい《藤原温泉》が発見されます。 更に上流にダムが出来た影響で鬼怒川の水位が下がり、そのおかげで新しい源泉が次々発見され、次第に大きくなって行きます。 大正8年には東武線の駅も出来(大滝駅)、次第に温泉街として発展しますが、この頃はまだ、《滝温泉》や《藤原温泉》と言い、【鬼怒川温泉】という名称になったのは昭和2年の事です。 この後、昭和6年には大滝駅が【鬼怒川温泉駅】と改称され、【鬼怒川温泉】は次第に一気に大きな温泉街になっていったそうです。
こちらも同じ鬼怒川ですが右手崖の上に3階建ての旅館が見えます。 ネガの文字部分を補正したら《右 大○館》という文字が見えますが、残念ながら現在もあるか、名前を変えて営業を続けているかは不明です。 また《左 鬼怒電》とも彫られていますが、鬼怒電とは現在の東武線の事のようです。 この当時は東武線ではなく下野電気鉄道という名称でしたが、実際には鬼怒電という愛称だったようです。
3枚目は宿の部屋か、駅から撮ったのかは不明ですが、当時の鬼怒川温泉街の様子です。 新しい街だからなのか、茅葺ではなく瓦屋根やトタンの家が多いのが判りますが、既に大きな街だった様子がわかります。 そしてやはり看板は右から読むスタイルです。 |
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左の写真をみて 「お〜川治温泉だ!」 と直ぐに思い出していましたが、鬼怒川に行った時に川治温泉まで足を伸ばしたようで、その際に皆で入った露天風呂の様子です。 露天風呂が川に張り出しているように見えますが、これは鬼怒川と合流する男鹿川です。 その男鹿川の目の前で、それこそ自然と一体になった壮大な露天風呂といった感じがします。 こうした川沿いの露天風呂が川治温泉の評判となり、川沿いの宿は皆こうした露天風呂を設けたようで、男鹿川沿いに露天風呂が点在する様子は壮観だったそうです。 想像するには、お風呂に関しては、明治大正時代の湯屋を引き継ぎ、今のように囲いやセキュリティの問題を重視はせず、まずは自然を大切にしたからかもしれませんね。 因みに、現在の川治温泉も、こうした川沿いの露天風呂が有名ですが、セキュリティに関しては、しっかりしているようです。 ところで写真をみると、祖祖父と3男の伯父が立っている後ろの岩肌に、何か文字が書かれています。 写真を拡大して良く見ると、【柏屋】という文字が、岩に書かれているようです。 この【柏屋】と川治温泉で調べましたら、創業80年の《湯けむりの里 柏屋》という旅館が現存している事が判りました。 創業80年ということは、丁度写真が撮られた頃に開業した旅館かもしれません。 そして左2枚目が現在の【柏屋】です。 今も男鹿川沿いの露天風呂や、お部屋から渓流が望める眺望が自慢の宿のようです。 この【柏屋】に行った時、今は使われていないような建物がありました。 入り口には鍵がかかり、中には入れませんでしたが、古い造りりの蔵のような建物です。 もしかして、この古い写真が撮られた時からあった建物なのかも知れませんね。 |
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こちらの写真には 《川治にて男鹿川にて祖父・俊三》 と記されていました。 男鹿川とは前述のように、鬼怒川と交わる川で、また釣りでも有名ですが、ここでのボート遊びをしていた時のようです。 ボートに乗っているのは祖父と三男の弟との記載がありますが、江戸末期生まれの祖祖父は、この頃70歳です。 下もこの頁の温泉のネガと一緒になっていましたので、この一連の写真と思われますが、旅館の部屋でお茶を飲んでくつろぐのは、3男の伯父のようです。 モノクロではありますが、部屋からの景色は絶景だったのでしょう。 |
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そしてこちらは川治近辺の道路のようです。 しっかりと砂利を敷いた広い道ですが、道路の向こうには大きな丸太が転がっています。 道の広さや、砂利が二重に敷かれている事からしますと、幹線道のようです。 車両のわだちも見えますが、当時はちょっと山や奥に入るとこうした砂利道が多かったようですが、山でこうした道はよい方だったそうです。 |
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