4-16.昭和7年・上野駅   ・ 


昭和7年新改装当時の上野駅

上は昭和7年に新装された後に撮ったという上野駅です。
出入り口が上下に見えますが、これは駅舎の立地を利用した立体建築で、乗車口と降車口を上下に分離し、車両の通行をスムーズにする為であったようです。
確かに1階部分にはタクシーらしき自動車が何台か見えますので、下がお客さんを待つ乗車口で、2階が降車口のようです。
手前には停留所らしき部分がありますが、これは市電の乗り場です。

駅前に停車しているのは円タクかもしれませんが、この頃の円タクは、【江戸東京博物館】で見ることが出来ます。
昭和6年頃のフォードA型・4ドアセダンですが、この頃はまだ国産車乗用車がありませんでしたので、輸入車がタクシーとして走っていました。
因みに【昭和9年・言問通り】にも円タクが写っています。


乗車口のタクシー

昭和6年頃の円タク/江戸東京博物館蔵

そして下は現在の上野駅です。
今は駅前には首都高速道路の高架や、大きな横断歩道がある為、古い写真のような広々とした上野駅を見る事は出来ませんが、駅舎の窓や時計、そして入り口などは今とはさほど変わらない感じがします。
上下2階の出入り口は、現在は2階部分のみが使われ、1階部分は業務用の搬入口になっています。
またタクシーの形こそ変わっていますが、駅前はタクシーの待合場というのは変わりません。


上野駅の歴史は古く、開業は明治13年です。
当時は上野〜熊谷間の往復運航で、【善光号(鉄道博物館にて展示中)】という機関車で運行されていました。
下が古い上野駅になります。



かつての上野駅/絵葉書

この時上野〜熊谷間の所要時間は2時間24分を要したようですが、現在の上野〜熊谷間は、普通列車で1時間程で、特急ですと49分です。

更に新幹線ですと33分という所要時間ですので、当時はかなりのんびりとした鈍行列車だったのですね。

記録を見ますと、この時の乗車料金が特等二円、上等一円二十銭、下等六十銭ということで、現在の貨幣価値で考えますと、最高で7万〜10万円で、最低でも2〜3万円という金額です!
今では考えられないくらいの、どれだけ高価な乗り物であったかがわかりますね!

もちろんホームは一本で、この頃は【駅】という呼び方では無く、【停車場】や【ステイション】と言われていました。
また、開業当時は国鉄ではなく、民間の私鉄としてスタートし、開業当初より東京と青森を結ぶ路線を第一目標に掲げられていました。

その後路線が北へと伸び、5年後には上野〜仙台が12時間20分という所要時間で結ばれ、青森までつながったのは、11年後の明治24年のことです。

上野では博覧会も多数開催され、北の玄関口として上野駅はますます発展しますが、大正12年9月1日の関東大震災では駅が一部損壊し、地震の後に発生した火災が翌2日には浅草方面から上野へと延焼し、ついに上野駅は全焼してしまいます。
それでも3週間後には仮駅舎で営業が再開され、昭和5年には新しい駅舎建設が着工し、現在の上野駅の姿となったのは、震災から9年も経た昭和7年です。


落成直後の上野驛/下町風俗資料館蔵絵葉書

上は上野駅落成後の絵葉書で、【最も近代美を誇る上野驛の壮観】というタイトルが付いているものです。

伯父が撮影した写真と同じく、駅前にはタクシーがたくさん停まっているのがわかります。
実は上野駅が新しくなって初登場したのが、駅前タクシーことターミナルタクシーです。
現在でこそ駅前のターミナルタクシーは当たり前の事ですが、日本で最初の駅前タクシーは上野駅からだったそうです。

またこの新装以降に上野駅内に新聞や雑誌等扱う売店が出来たそうですが、これがキオスクの始まりとも言われています。

駅前ターミナルの手前には自転車がずいぶん見えますが、バスも走っています。
その手前には歩道と共に線路が見えますが、これは市電の線路ですね。
更に手前の線路と線路に挟まれた所には、アーチのような入り口が見えますが、これは前述【地下鉄ストア】と地下通路でつながっている、地下鉄銀座線の入り口です。
としますと、伯父が撮影したのは、この地下鉄入り口近辺からのようです


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