4-47.昭和8年・上野動物園 2 ← ・ → |
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動物園の人気者と言えば今も昔も象ですが、この当時の上野動物園には、大正13年にやってきたインド象のジョンとトンキーという二頭の象がいました。 写真の象は比較的小柄にみえますので、トンキーかもしれません。 象舎の塀が綺麗に見えますが、この象舎はこの頃に作られたもので、プールも付いた広い象舎です。 この広い象舎が出来る前までは、象がゆったり動き回るスペースもなかった為、運動不足解消として、動物園内を散歩させたり、園内に専用の繋留場所が設けられ、その周りを囲んで象を見学していたそうです。 また象と子供たちが綱引きをしたり、餌をあげたりといったふれ合いも多かったようです。 このトンキーについては、戦後に「かわいそうな象」という題で小学校低学年の童話集に発表されます。 その後、昭和49年から61年にかけて、小学校の教科書にも掲載されました。 昭和18年の戦時中に、空襲によって檻が破壊され、動物たちが逃げ出す事を恐れた事から、ライオン、虎、豹、象、ヒグマなど14種27頭に【猛獣処分】という命令が下され、上野動物園の動物たちは、次々と薬殺されていきます。 そんな中、象たちは毒入りの餌を食べず、注射針も刺さらず、最後は餓死してしまうのですが、最期まで芸をしながら餌をねだっていたのが、このトンキーです。 この動物たちのお話は、教科書以外にもテレビドラマでも放映されたり《象のいない動物園》としてアニメ映画にもなったりしましたので、ご存知の方も多いのでは?と思います。 最終的にはヒグマ、ライオン、ヒョウ、トラ、ニシキヘビ、インド象など14種27頭の動物が姿を消します。 また大阪の天王寺動物園や京都、仙台、福岡などの動物園や、サーカスなどでも同じように処分される事になります。 |
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戦後上野動物園が再開し、新しく登場したのが《お猿の電車》です。 猛獣がいなくなった後の新しい企画として登場し、一躍人気となります。 が、上野動物園には象のいない日が続き、象を見たい子供たちは子供議会を開き、その頃2頭飼育していた名古屋の東山動物園へ、象を1頭借りるため名古屋に向かいます。 この時は象の移動が困難だったり2頭を引き離す事が難しいことから、各地から東山動物園へ象を見に行く《象列車》が運行する事になりました。 そうした子供たちの熱望の中、丁度来日していたインドのネール首相宛てに、1500通の手紙や絵を渡し、子供たちの熱望が伝わって上野動物園にインド象の《インディラ》がやってきたのが昭和24年9月で、同時にタイからは《はな子》がやってきました。 上野では《象まつり》なども行われ、動物園の人気者となりますが、平成14年にもタイから友好使節としてアジア象が上野動物園にやってきました。 たまたま娘が寛永寺幼稚園に通っていた事から、園児たちも式典に参加して【ぞうさん】の歌を歌った事がありましたが、右がその時のお披露目の時の様子です。 とにかく上野動物園の象舎の前は、いつ行ってもたくさんの人でいっぱいです。 因みに童謡の【ぞうさん】は、作曲者の團伊玖磨氏が、昭和24年に象が贈られた際、そのお披露目の曲として作曲した童謡です。 |
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こちらにはライオンが写っていますが、この時代の動物園の企画として【幼獣園】があったようです。 これは、この頃にライオンの赤ちゃんが生まれたことから、そのライオンの赤ちゃんと他の動物の赤ちゃんを一緒の施設で公開するといったものです。 今でもそうした事があれば評判になると思いますが、この時は、ライオンとキツネといのししとヤギの赤ちゃんが一緒にし公開され、とても評判がよかったそうで、こうした事もあって、動物園の人気はうなぎ登りだったようです。 最近は動物園ブームと言われ、さまざまな動物の展示方法がなされているようです。 神奈川にはズーラシアが出来、また北海道旭川市の旭山動物園は、動物たちの自然な姿を見る事が出来るということで、ますます来園者が多くなっているようです。 |
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