4-40.昭和8年・軍人会館 ← ・ → |
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こちらは昭和8年7月1日発行の【時事写真速報】ですが、《九段の偉観 上棟式が迫る軍人会館》というタイトルです。 九段と書いてありますように、この建物は九段下にある現在の【九段会館】の事です。 記載には11月完成予定となっていますが、実際には翌年5月竣工です。
速報にも書いてありますが【軍人会館】とは当時の現役及び退役軍人たちの出資によって建てられたもので、予備役軍人の教育鍛錬の場として利用されていました。 写真でも判りますように、鉄筋コンクリートの壁に、和風の屋根ですが、これは昭和初期に流行した帝冠様式の建築物です。 またこの軍人会館はさまざまな歴史と共にあったようで、昭和11年の二・二六事件では、戒厳指令部が置かれ、翌年には愛新覚羅溥傑の結婚式が行われます。 戦後は連合軍に接収され、10年以上連合軍の宿泊施設として利用されますが、その後【九段会館】と名を改め1100人収容のホールはコンサートホールとしても使用され、また結婚式の会場としても広く知られるようになりました。 それにしてもこの【軍人会館】は規模の大きな建築物だったようで、この当時としては珍しく、クレーンも使用されていたようです。 今とは構造が大分違い、アームが鉄塔部分を移動するタイプなのでしょうか? 建物周りの足場も今の鉄骨とは違って木造のようですし、屋根のてっぺんで作業をしている人の姿も見えますが、落下防止の網や、命綱なども見えません。 工事車両もトラックのようなものは見あたらず、大八車や自転車だけのようです。 また建物の手前には銅像らしきものが見えます。 現在はこの位置には千代田区役所が建っていますが、かつてこの場所には【愛国婦人会】の建物が建っていました。 【愛国婦人会】は明治34年(1901)に、戦争で亡くなった方々の遺族の救護や、傷痍軍人の慰問や救護を目的として、婦人運動家の奥村五百子が中心となって設立したものです。 像をよく見ますと女性の像らしく見えますので、この像は奥村五百子像かもしれません。 【愛国婦人会】は、当初の目的から、軍事援護色が強くなり、太平洋戦争が始まると、他の婦人会と統合されることになります。 もちろん現在はこの像はありませんが、きっと戦時下の金属回収令によって提供されたのでしょうね。 こうした古い建物の写真はよく見ますが、工事中の写真も時代を知るには貴重な資料という事がわかります。 |
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