4-30.昭和8年・萬国婦人子供博覧会 4   ・ 


博覧会会場内の様子/昭和8年

先ほどの【のらくろ不思議館】の前には、大きなハリボテの犬も見えますが、いったい何なんでしょう?
さすがの伯父も記憶がないとの事でしたが、この頃犬の博覧会や猫の博覧会なども行われていた時期ですので、そうした犬関連のテーマパークだったのでしょうか?

右側には高いシンボルタワーが見えますが、博覧会の名称である【萬国婦人子供博覧会】という文字と、【ドイツ大サーカス】という文字が書かれています。


この萬国婦人子供博覧会の目玉の一つに、【ドイツ大サーカス】がありました。

この当時は【サーカス】と言う名称ではなく、《曲芸団》とか《曲馬団》と言われ、入場料も30銭から40銭ほどの興行が人気だったそうですが、この時来日したハーゲンベックサーカス団は【サーカス】と名乗り、団員150名、動物も180頭を超え、日本初の本格的なサーカスでした。
更に動物園も併設しており、人気の的だったようです。


上は芝橋会場の中で、左には前述《東日コドモ遊園》の看板が見えますが、右側の大きなテントがサーカスの小屋のようです。

この時のサーカスは、ライオンや熊等の猛獣を操ったり、虎を背中に乗せた象が芸をするなど、珍しさもあって、入場料が立ち見の五十銭からボックス席の五円と高かったにもかかわらず、サーカス見たさに、連日満員が続き、新聞でも《開国以来の大騒ぎ》と記事になっていたそうです。
そう思って上の写真を見ると、行列のように見えるのは、サーカスに並んでいるのでしょうかね?

この後、名古屋・神戸・福岡等でもサーカスは開催されましたが、このドイツ大サーカス団の来日を記念して作られたのが、古賀政男氏作曲・西條八十氏作詞の【サーカスの歌】で、淡谷のり子さんが歌を披露した記録が残っています。

また同時に動物園も開かれ、珍しい動物が公開されましたが、ハーゲンベックは動物商も兼ねており、この時上野動物園ではキリンのつがいを購入し、日本各地の動物園も珍しい動物を購入しています。
尚、名古屋の東山動物園が開園したのが昭和12年ですが、ハーゲンベック大サーカスが名古屋で興行をした時は足繁く通い、新しい動物園の構想など参考にしたと言われています。


博覧会会場内 宇津救命丸看板

こちらは会場内の看板のようですが、《小児良薬 宇津救命丸》と読めます。
宇津救命丸は4百年の歴史を誇る日本を代表する小児用薬ですが、宇津救命丸がスポンサーのパビリオンだったのでしょうか?
先にも《森永・キングレコード・高島屋》など様々な企業名が掲示されていましたが、こうした博覧会は企業にとっては今も昔もかっこうのPRの場だったようです。


不忍池から見た博覧会会場

上は上野の池之端会場の正面入り口ですが、この時の博覧会は不忍池のほとりで開催されているのが判ります。
前頁入場券にも、池之端会場と印されていますが、ここは現在の上野動物園西園にあたります。
この上野公園では数々の博覧会が開かれていましたが、会場は上野公園の山一帯と、池之端の現動物園西園一帯が使われていました。


現在の不忍池

最初の博覧会は、明治10年開催の【第一回内国勧業博覧会】で、国内産物や産業機械の展示等、主に国内産業の振興として開催され、その後、5年毎に開催されるようになり、関西でも博覧会が開かれましたが、東京ではここ上野がそのメインの会場となっていました。

大正3年の【東京大正博覧会】では、日本初のエスカレーターが登場し、直ぐに実用化されます。
これ以外にもロープウェーや、水上飛行機や遊戯具が登場したりと、次第に国内産業の振興としてよりも、娯楽性が強くなります。
ただ、入場者数は非常に増えていったようで、昭和に入ってからは、博覧会の回数も多くなり、日本全国で開催されるようになっていきました。

不忍池の蓮と弁天堂

現在では上野で博覧会が開催されることはなくなり、上野の山一帯は公園として整備され、また池之端の会場跡も動物園となりましたが、不忍池はそのままで、夏には蓮の葉で覆いつくされ、行き交う人の目を楽しませてくれます。
これらの写真を見ていますと、『タイムマシンがあったらな〜』とつくづく思ってしまいます。


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