4-22.昭和7年・小田原 美濃政 2 ← ・ → |
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小田原駅前で写真を撮り、その後駅前近辺を散歩していましたら、元あった場所の裏手に、《おしゃれ横丁》という細い小路があり、その一角に【みのまさ】と書かれた看板がありました。 お店の中の雰囲気や、看板が古そうな感じでしたので、『もしかして?』と思い、お店の中に当時の写真を手に中に入ってお話を聞きました。 そして中にいらっしゃいました、年配のご婦人に古い写真を見てもらいましたところ、何と古い写真の【美濃政】は、ご婦人のお店だった事が判りました。 そして古い写真のお店は、昭和19年まで小田原駅前にあった店舗だった事も判りました。 いろいろと伺いましたら、ご婦人は【美濃政】の先代の女将さんで、古い写真の当時の事はしっかり覚えていらっしゃいました。 また店舗名も、以前は【美濃政】でしたが、今は【美の政】となっているとの事で、なるほど【美濃政】で探してもなかなか見つからなかった訳ですね。 お話によりますと、お店は江戸時代の400年程前から営業していたそうで、名物の梅干は、小田原や近くの道了尊はもとより、東京や皇室関係の方々も贔屓にされていたそうで、その関係の記念の看板もありました。 また店内にも、お客さんが撮影したという古い写真が架けられており、伯父が撮影した時と近い時期に撮影された写真のようでした。 女将さんによりますと、こうした古い写真はほとんど残っておらず、残っているとしても駅を撮った写真が多い為、駅と反対側の店舗の写真はあまりないとの事で、懐かしがって写真をご覧になっていらっしゃいました。 写真が撮られた昭和初期には、駅前にこうしたお土産店や飲食のお店は二2、3軒しかなく、こちらの【美濃政】も、一階でお土産を売り、二階は300人程も収容できる食事処だったそうです。 更にお店の構えも大きかったそうで、二階建ながらも、間口は十二間程(21.6m)もあったそうで、写真に写っている隣の【ハコネ行 のり合自動車】の看板の建物も同じく二階建てだったそうですので、同じ二階建の建物と言っても、その構えの違いは歴然です。 前頁写真に写っている立て看板にも《東京立大様ご休憩所》や《月?大?様ご休憩所》と書かれているように、大学の団体やグループの方が多く出入りをしていたそうで、 『当時は大雄山からはバス等なく、歩くか籠しかありませんでしたので、道了さまにいらっしゃる方は時間がかかるからと言って、ここで中食をとられるかたが多くいらっしゃいましたよ』 とのことでしたが、特に【道了尊】の大祭の時期になると、たくさんの方々で混みあったそうです。 |
こちらの写真裏には、《小田原驛前美濃政に於ける窓より冩す》と記載されていましたので、先代の女将さんにも見て頂きましたら、確かに当時の【美濃政】の二階の眺めだそうで、とても懐かしがってご覧になりました。
写真の電車と似たような登山電車を他でも見たことがありましたので、当初は箱根登山鉄道と思っていましたが、伺いましたらそうではなく、当時小田原市内を走っていたチンチン電車だそうです。(もちろん現在は走っていません) 写真奥の看板には【八百源商店】や【ユニオンビール】と言う看板が見えますが、当時はビール業界も乱立の時代だったようで、この【ユニオンビール】も大手ビール会社だったようです。 そしてその看板がある通りが駅前の通りです。 当時の【美濃政】の建物は、《万が一の空襲等で焼夷弾が落ちた場合、大きな建物であることから延焼の被害が予想される》という防災上の観点から、終戦間近の昭和19年に解体されたそうで、先代女将さんは、現在もその時分の解体される様子を覚えていらっしゃるそうです。 そして、現在営業をしているのは、古い写真の線路向こうに建つ平屋の家屋だそうです。 かつては倉庫として使用していたそうで、壁にも梅干用なのか、壷や瓶らしきものが重ねて置かれているようです。(上拡大写真) 更にその横には立て看板が置かれているようです。 この【美濃政】さんは、古くからのお付き合いの方々が多く、店内にはそうしたお付き合いの方々からの木札や寄贈品がたくさんありました。 特に東京の火消しの方々との縁が深いようで、火消しの纏が掘られた木札には、谷中・下谷・稲荷町といった上野界隈の町名も見えます。
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